声の主は、小学校低学年と思わしき女の子だった。
白いトレーナーに赤いスカート。おかっぱ頭の前髪は目にかかるくらいに長い。
手には買い物籠を抱え、その中からは白ネギが覗いている。
ぱたぱたと走り寄ってくる小さな友人に、ゆかりは小さく手を上げることで答えた。

「や、亜紀ちゃん。おつかいの帰りかな?」
「うん! あ、でも、まだ途中なんだけど……」

 亜紀と呼ばれた少女は元気良く頷き、その後で何故か少し困った顔をする。吉田はそんな彼女を不思議そうに見やり、首を傾げた。

「ゆかりちゃんって、妹いたっけ?」
「バイト先で仲良くなった子なんだ。ほら、商店街入ってすぐの『フィオリ』っていうパン屋あるでしょ。あそこでバイトしてるって言ってなかったっけ?」
「ああ、そう言えば前に聞いたことあったような」

 得心したように頷く吉田を、亜紀が猫を思わせる大きな瞳で見ていた。ゆかりに尋ねる。

「お姉ちゃん、こっちの人は?」
「ああ、こっちは私の友達の吉田一美。一美、ほら」
「吉田一美です。よろしくね、亜紀ちゃん」
「小宮亜紀です。よろしく、一美お姉ちゃん!」

 と、紅葉のような手を差し出しての握手。これには吉田も顔をほころばせた。何時見ても可愛いな、とゆかりは内心なごむ。
妹か弟が欲しかった過去のある身としてはこんないい子と仲良く出来るのは嬉しい。
幼いながらもすっきりとした目鼻立ちは五年、十年後の美貌を保証しているかのよう。惜しむらくは前髪が目にかかっているせいでそのくりくりした瞳が隠れて
若干表情が暗く見えるところか。少しカットするか、ヘアピンで留めるかすればガラッと印象変わると思うんだけどなあ、とゆかりは少々おせっかいにも思った。
彼女に関するもう一つの事情の方に口出しする気は無いが、ぬいぐるみのお礼にヘアピンをプレゼントするのはなかなかいいアイディアのように思われた。

「料理すっごく上手なんでしょ? ゆかりお姉ちゃんから聞いてるよ」
「え、いや、それほどでも……」

 無垢な称賛に頬を染めて照れる吉田。

「他にもあるよ。優しくて、気が利いてて……」
「や、やだもう……」
「あとちょっぴりドジでどんくさくておっぱいが大きい」
「ちょ、ゆかりちゃん!?」

咄嗟に胸を隠す仕草をして抗議の声を上げる吉田。

「駄目だよ亜紀ちゃん。最後から前の二つは内緒にしてくんなきゃ」
「いや、それでも軽くセクハラだと思う……」
「あはは、ごめんごめん」

 ぼやくようにゆかりを非難する吉田と、笑いながら謝るゆかり。そんな二人を見て、亜紀は「仲良しなんだね」と無邪気な感想を漏らしていた。

「あ、そうだ。一美お姉ちゃん、お料理に詳しいんだよね? 『ろっかく』って何か知ってる?」
「え? 『ろっかく』?」

 ふと気付いたように亜紀が吉田に質問を投げ掛け、吉田は聴き慣れない単語にきょとんとした顔をした。

「うん。スーパーで探したんだけど見つからなくって。店員さんに聞いても知らないっていうし……」
「う〜ん……。亜紀ちゃん、亜紀ちゃん家の今晩のメニューはわかる?」
「お母さんは煮豚にするって言ってたけど」
「ああ、それならきっと『八角』のことね」
「『はっかく』?」
「そう。お肉なんかの臭み消しに使う香辛料のこと。『スターアニス』とか『八角茴香(はっかくういきょう)』、『大茴香(だいういきょう)』とも言うんだけど……。
スーパーでそういうのは見なかった?」
「あ、それならあった! 小さな袋に入ってるやつ!」

 亜紀の顔がぱあっと明るくなった。流石は料理達者な吉田一美である。ゆかりなどはそもそも八角が何かすらも知らず、その別名なんかは何かの技か呪文のようにしか
聞こえなかったというのに。幼馴染の知識の深さに、ゆかりは感心することしきりであった。
 そんなゆかりの感心を知ってか知らずか、亜紀は礼儀正しくぺこりと頭を下げ、「ありがとう、一美お姉ちゃん」とお礼を言う。
吉田がそれに軽く笑って答えるのを見取ると、亜紀はくるりと身を翻して駆け出した。そんなに急いだら危ないよ、とゆかりが注意を促そうとしたその時、

「きゃっ!」

 亜紀が歩道を前から歩いてきた中年の男性にぶつかり、転んで尻餅を突いた。買い物籠の中身が煉瓦敷きの歩道にぶちまけられる。
 ああ、言わんこっちゃない。ゆかりは慌てて亜紀に駆け寄った。隣の吉田もそれに続く。見たところ亜紀に怪我は無いようだ。そのことには安堵する。さて、彼女がぶつかった男性の方は……。

「(……え?)」

 消えた。何の前兆も前触れも無く、唐突に消えた。目を離した隙に男性が立ち去ったとかそういう話では無く、こちらが見ている中で本当に消えてしまった。まるで煙のように。
恐ろしい空白だけがゆかりの眼前に突き付けられていた。買い物籠から零れ落ちたりんごが、ゆかりの足元に転がって来ていた。
 脳が目の前の事象を拒否していた。何かがおかしくなり始めたあの夕方の河川敷の光景が脳裏に浮かんでは消え、視界が白く明滅する。
耳元に心臓があるかと勘違いする程に煩い鼓動が、含むものはあれど先程までは確かにあった和やかな気分を容赦無く焼き尽くしていく。

「大丈夫、亜紀ちゃん? もう、いきなり走るから『躓いて』転んじゃうんだよ」

 転んだ亜紀に手を貸してやりながらそう言う吉田の声がやたらと遠くに聞こえるような気がした。
 躓いて転んだ? この子は何を言ってるんだ? 亜紀は人にぶつかって転んだんじゃないか! 目の前で人が一人掻き消えたというのに、何でおかしいと思わないのだ!?
答えの出ない自問自答を繰り返す。どう頭を捻ろうと納得の行く回答など出せよう筈も無い。出せよう筈も無かったが、ゆかりはそうせざるを得なかった。
でなければ胃の腑をせり上がってくる恐怖に負けてしまいそうになるからだ。

「……ねえ、今、さ」
「え? どうしたのゆかりちゃん?」
「いや……何でも、ない」

 口の中が粘つく。真綿で首を絞めるが如く自分を追い詰める不可解な現実に、ゆかりは思わず吉田を問い詰めたいという衝動に駆られた。それをしなかったのは亜紀がいたからだ。
彼女に見せていい姿では無い。咄嗟にそこまでの自制心が働いた自分を、ゆかりは褒めてやりたい気分になった。

「お姉ちゃん、大丈夫? お顔が真っ青だよ?」

 心配そうにこちらを見上げてくる亜紀。そんな彼女の頭をゆかりは撫でて「大丈夫だよ」と強がって見せたが、誰の目にも大丈夫そうには見えなかった。
当人もそのことは自覚している。頬が引きつっていないか気を付けながら誤魔化すように笑って、

「……良かったね。卵、割れてないみたい」  

 特売品、ワンパック98円の卵を拾い上げて亜紀に手渡した。二人は何と言ったらいいかわからないというような複雑な顔でゆかりを見ていた。

 





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