御崎市を東西に二分する真南川。その堤防沿いの道をゆかりは歩いていた。左手には通学鞄。小脇には紙袋を抱えている。
ゆかりは紙袋の中にがさごそと手を突っ込むと、その中から見事な焼き色と形をしたメロンパンを一つ取り出した。
はむ、と一口齧るとさくさくとした歯応えと共に生クリームのあっさりとした甘味が口の中一杯に広がり、思わず顔がほころんでしまう。
やはりあの店のメロンパンは最高だ。お土産に持たせてくれた分、気を付けないと全部食べちゃうかも。
 四月も中旬を過ぎたというのに、何故だか妙に冷える日であった。不意に川風がはっとするような冷たさで吹き付けてきて、ゆかりは身を縮こまらせた。
夏に行われる「御崎市ミサゴ祭り」開催時には大勢の客で賑わう河川敷は、当然のことながら今はただ薄青い夕闇に静かに染まっているだけである。

「(今日はちょっと疲れたな)

 空にちらちらと輝き始めた星を眺め、ゆかりはうーんと背筋を伸ばした。働くって大変だ。うん、今度からもっとお父さんに感謝するようにしよう。
そう言えば来月お父さんの誕生日だったっけ。最初のバイト代でお父さんに誕生日プレゼントを買うのもいいかもしれない。
決して不快でない、心地良い疲れの中でゆかりはそんなことを考えた。
 ゆかりがアルバイトを始めようと考えたのは大した理由からでは無い。
単純にアルバイト自体を経験してみたかったのと、もう少し自分の自由になるお金が欲しいな、と思っただけである。
それで色々と情報を集めて最終的に決まったのが、市街地に入ってすぐ近くにあるパン屋でのアルバイトである。
亡き夫の跡を継いだという女性店主は優しくていい人だ。その娘からはどういう訳か気に入られ、手作りの品まで貰う仲になった。
いいバイト先を見つけたものだと自分でも思う。
 ふと、今日はまだ家に帰りの連絡を入れていないことに気が付いた。それは両親と話して決めた取り決めの一つである。
ゆかりは慌てて鞄の中から携帯を探し始めた。もちろん、脇でパンを潰さないように気を付けている。このメロンパンの肝である特製生クリームがはみ出してはだらしない。
 彼女が河川敷に何か大きな物を見つけたのは、携帯を探り当て家に連絡を入れようとしたその時だった。 
 丈の短い草むらに横たわるそれは、よく見れば人の形をしているように見えた。その傍に転がっている物は鞄だろうか。
人形……いや、もしかしてもしかすると、本物? ゆかりは立ち止まって暫し思案した。もしあれが本物でその上変質者だったりしたらどうしよう、かと。
実時間にして二秒程悩んだ後、ゆかりは河川敷に下りる古びたコンクリートの階段に足を掛けていた。辺りには自分以外誰もいない。
もしも怪我や病気で動けず助けを求めている人がいるのなら、それを見過ごすのは余りに薄情なことのように思えたのだ。
人形だったら笑い話にする。変質者だったら走って逃げる。怪我人や病人だったら助けを呼ぼう。
平井ゆかり、良くも悪くもシンプルで真っ直ぐな性格の少女であった。
 河川敷に下りたゆかりは草を踏み締め、ゆっくりとそれに近付いていった。
近くまで来てみるとやはり本物の人間、らしい。うつ伏せになっているため顔までは判別出来ないが、学生服を着ていることからゆかりと同年代の少年だということはわかった。
ゆかりはそれを見て歩みを早めようとして、
 
 ――うちの学校の制服?

 そう思い当った時、何故だか背中に気味の悪い汗がすうっと走った。どっ、どっ、どっ、と思いっ切り走った後のように心臓が早鐘を打ち始めた。
身体がぎしぎしと音を立てて強張っていくような気がした。
理由はゆかり自身にもまるで説明出来ない。ただ、全身が『そっちに行くな』と警鐘を鳴らしている。
 また風が吹いて足元の草がさわさわと鳴る。川面がそれになぶられ、薄青い小波を立てる。
 ゆかりは自分と彼の周り半径数メートルが世界から切り離されてしまったような錯覚の中、ふらふらと少年に近付いていく。
駄目だ。見るな。触るんじゃない。本能からの警鐘は最早頭を内側から叩くようなのに、何故だか足が止まらない。
 少年のすぐ傍まで来た。肩に手を掛け、二、三度揺する。反応は無し。ゆかりは少年の身を起こそうとして、その下に何か赤黒い液体が広がっていることに気付いた。

「……え?」

 青々と茂る草むらを染め上げるもの。体格の割にやたらと重く感じる、未だ何の反応も示さない少年とその顔。その意味。
それらを全て理解した時、ゆかりは聴く者の耳が裂けるほどの悲鳴を上げていた。
 坂井悠二が絶命していた。その胸に両掌を合わせても余る位の風穴を空けて。


 荷物を放り出して声ならぬ悲鳴を上げながらゆかりは走り出し、足を縺れさせて転んだ。手足が擦り剥けて血が出た。上着とスカートが草まみれ、砂まみれになった。
ばたばたともがくように地面に手を突いて立ち上がり、転がるように走った。階段の存在を忘れ果て、直接土手を駆け上がる。何度も足を滑らせそうになり、その度傾斜
に指を立てた所為で爪の間に土が入り込んで酷い有様になった。それでもどうにか身を投げ出すようにして土手を上がり切った。

「き、君!? どうしたんだね!?」

 青息吐息を吐きながら道にへたり込むゆかりの耳に、キキっという自転車のブレーキ音と狼狽した男性の声が聞こえて来た。
見上げれば、三十代半ばと思わしき巡査がすぐ傍に立っている。巡回中にゆかりの悲鳴を聴き付けて駆け付けて来てくれたらしい。
 おまわりさん。大変なんです。坂井君が死んじゃった。何で、何で、こんなことに……。
 頭の中はぐちゃぐちゃで、言葉が何も出てこない。衝撃と恐怖が伝えるべき言葉を全て塗り潰してしまったかのようだった。
今更になって涙が滲んで来た。こちらを気遣わし気にする巡査の顔がぼやけて見えた。

「む、向こ、う……ひ、ひとが……」

 ゆかりは震えながら河川敷を指差し、それだけを口にした。巡査が怪訝そうにその方向を見やり、

「平井さん……どうしたの?」

 ゆかりは聞こえる筈の無い声とある筈のない姿に、今度こそ気を失いそうになった。
巡査の後ろ。先程彼女がその無惨な死体を確認したばかりの坂井悠二が立っていたのである。

 





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