帰りのホームルームが終わると、平井ゆかりは隣席の少年になるべく目を向けないようにして帰り支度を始めた。
 別に喧嘩をしている訳では無い。思春期特有の甘酸っぱい理由によるものでもない。
もしそんな理由だったら少なくともゆかりは今程悩んではいない筈だ。

「平井さん」

 半ば逃げるように席を立とうとしたその矢先に声を掛けられ、平井ゆかりは身を強張らせた。鞄の柄を握る手に知らず力がこもる。

「な、何?」
「これ、落としたよ」

 ぎこちなく振り返ったその先で、ゆかりの悩みの種である少年・坂井悠二が掌をこちらに差し出していた。その上には小さなピンク
色のワニのぬいぐるみが乗っている。紐を通して鞄に括り付けていたのだが、教科書をしまうときに落としてしまったらしい。

「可愛いぬいぐるみだね」
「う、うん。バイト先で友達に貰ったんだ」
「そうなんだ」

 落ち着け。気の所為なんだ。自分にそう言い聞かせながら、ゆかりはそれを受け取ろうと手を伸ばす。その時、互いの指先が僅かに触れた。

「……っ!」

 ひっと息を呑む声ならぬ声がゆかりの口から漏れた。反射的に手を引っ込めてしまい、ぬいぐるみがぽてんと床に落ちる。
床に落ちたぬいぐるみは二、三回軽く弾んでゆかりの足元に転がった。

「平井さん……大丈夫?」

 見知ったクラスメイトの声にはこちらを気遣う響きがあった。
表情は茫として掴み所が無いように見えるが、それだってこちら側の心持ちの所為だろう。
彼は何も悪いことをしていないし、嘘も吐いていない。頭ではわかっているのに、何故こんな態度を取ってしまうんだろう。

「あ、ああ……。ごめんね、坂井君。何でも無い。何でも無いの」

 周囲のクラスメイトの視線が集まるのを感じ、ゆかりは申し訳無い気持ちで一杯になった。
これではまるで彼が何か悪いことをしたみたいではないか。実際は彼はただ落し物を拾ってくれただけだというのに。
 視界の端に幼馴染の少女がこちらを困惑した様子で見ているのが映り、ゆかりは彼女にも悪いことをしたなと思うのだった。





 高校一年の四月末。平井ゆかりはごく平凡な日常を過ごしている筈であった。
 新しい環境にはそこそこ慣れた。受験だの進路だのといったややこしい問題にぶち当たるのはまだまだ先の話。
割と人当りの良い性格のおかげで友人も何人か出来た。幼稚園時代の同窓生と再会し、交流を復活させてもいる。
 中流家庭に育った一人娘であり、父はサラリーマンで母は専業主婦。マンションで両親と三人暮らし。
成績は可も無く不可も無く。ただ、ノートの取り方が上手いので級友達には重宝がられ、金銭の絡まない見返りを受け取ることもある。
 彼氏はいない。中学時代からの付き合いである池速人には年頃の少女らしい想いを寄せてはいるが、今のところ進展は無い。
そういうのは時間を掛けて少しずつ、と思っている。
 差し迫った悩みなど無い、概ね順風満帆と言って差し支えない高校生活だ。
悩みらしい悩みと言えば目前の大型連休をどのように過ごすか、ということぐらいだろうか。ゆかりが囚われているある馬鹿げた妄想のことを除けば、だが。

「……ねえ、ゆかりちゃん。坂井君と喧嘩でもしたの?」

 隣を歩く幼馴染、吉田一美がおずおずと言った感じで切り出した。ショートに切り揃えられた前髪の向こうで、瞳が心配気に揺らめいている。
 ゆかりが彼女を伴って学校を含めた住宅地の対岸、大鉄橋で結ばれた市街地へと足を運んだのは、連休の過ごし方の相談がてら商店街を適当にブラつく為
であったのだが、とてもそういう雰囲気じゃないなとゆかりは思った。

「いや、別に喧嘩したってわけじゃないよ」
「でも」
「大丈夫。一美が心配することなんて何も無かったって」

 吉田が彼の少年を憎からず思っていることには気付いていた。誰だってそんな相手が訳も無く怖がられたらいい気分はしない。
それは勿論あるだろうが、今の吉田は純粋な好意でこちらを気遣ってくれている。いっそ全部話してしまおうとかな、という気持ちがゆかりの中で首をもたげた。
話してそんなことはありえない、夢でも見たんじゃないかと一笑に付して貰いたい気持ちと、余計なことを話して吉田を混乱させたくないという気持ちがゆかりの
中で争っていた。
 そんなゆかりの葛藤を知ってか知らずか、吉田は更に続けた。

「……わかった。でも、それはそれとしてゆかりちゃん最近何か疲れてない?」
「参ったなあ。そんなに具合悪そうに見える?」
「さっきは今にも倒れちゃうんじゃないかって思った」
「あはは、一美は心配性だねえ〜」
「誤魔化さないでよ」

 軽いノリで流そうとしたゆかりは、思いの外真面目な顔で見つめ返されて言葉に詰まった。
どちらとも無く歩みを止めて、互いに見つめ合う。先に視線を逸らしたのはゆかりの方だった。
そう言えば昔から気弱で泣き虫のくせに一度心を決めたら梃子でも動かないような頑固な所もあったっけ、とゆかりは幼馴染故の感慨と諦めを同時に抱いたのだった。

「大したことじゃないよ。最近ちょっと夢見が悪かっただけ」

 小さくため息を吐いた後で出たその答えに、吉田は怪訝そうな顔をした。

「夢?」
「そう、夢。妙にリアルで嫌な展開の奴でさ。さっきはその夢の場面とあんまり似たシチュエーションになったから驚いただけだよ。ほら、なんて言ったっけ?
 知らないのに知ってる感じがするっていう、デバ、じゃなくてデンジャ――」
「デジャ・ヴュ?」
「そう。それそれ」

吉田の言葉に頷きながら、ゆかりはその「夢」のことを思い返していった。

 





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