十年前の、よく晴れた秋の日のことだ。湊は両親と家族水入らずで動物園に出掛けた。
 父の仕事の都合で一度は延期された計画だったから、その喜びもひとしお。湊は両親の手を引っ張り、動物園中を見て回った。
百獣の王に相応しい風格で悠然と寝そべるライオンに目を輝かせた。
「動物との触れ合い広場」では手ずからキリンにおやつの樫の木の葉をあげた。ペンギン島をバックに家族で記念撮影をした。
お腹が空いたら母のお手製のサンドイッチとおにぎりに舌鼓を打ち、父と一緒においしいと連呼して母を照れさせたものだ。
 そうして一休みした後で、湊は何を思ったか「パンダに触ってみたい」と無理難題を言い出して両親を困らせた。
 それはちょっと、となだめる両親の言葉も湊は聞き入れなかった。何故そこまでパンダにこだわったのかは自分でもわからない。
困った両親は湊をレッサーパンダとの触れ合いコーナーに連れて行った。
くりくりとした目をした可愛らしい生き物を抱きながら「このコ達じゃダメ?」とはにかみながら尋ねる母の顔が印象に残っている。
 違う、パンダじゃない。言葉にはしなかったもののそう不満を持っていた湊だったが、ふわふわとした栗色の体毛を撫でたり喉の辺りをコロコロしたりしているうちに、たちまちその可愛らしさの虜になった。そうやって一時間以上をレッサーパンダとの触れ合いに費やした程だ。
そんな現金な息子の姿を、両親は苦笑しながら眺めていた。
 思いっ切り遊んで。日が暮れて。楽しい時間を過ごした有里一家は家路に着いた。
 車は巌戸台と人工島を結ぶムーンライトブリッジに差し掛かった。電灯の光が車内を等間隔に流れて行く。
父の運転する車の中で、湊は売店で買ってもらったキーホルダーを飽きもせずいじっていた。
それは漫画調にディフォルメされたレッサーパンダのキーホルダーで、あまり物をねだるようなことをしない湊が珍しく「これが欲しい」と強く主張したものだった。「湊はまだまだ子供だなあ」と父がからかうように言っていた。
 橋の中心地まで走った時、何の前触れもなく、橋の電灯が一斉に消えた。一家を乗せた車が父の意思とは関係無く走行を停止した。
 アクセルを踏んでも、エンジンを掛け直しても車は沈黙したまま動かない。いぶかしんだ両親はドアを開けて車外に出た。
湊もそれに続いた。車のボンネットを開けたり足周りを調べたりしながらあれこれ相談し合う両親。
その間、湊は退屈だった。手慰みにキーホルダーのリングに指を引っ掛け、くるくると回した。
四方を冷たく侵す秋の宵闇の中で、蛍光素材で作られた人形が光の輪を描いていた。
 時に、運命というものは些細な偶然で大きく分かれることがある。
 その時に起こったのは何ということの無いつまらない出来事だった。湊の指先が狂い、キーホルダーがすっぽ抜けてしまったのだ。
 アスファルトの上を転がるキーホルダーを、湊は慌てて取りに行った。言葉にするなら、ただそれだけのこと。
ただそれだけのことが湊の運命を分けた。

 凄まじい衝撃波が、何もかもを吹き飛ばしていった。車はまるで空き箱を蹴っ飛ばすように軽々と宙を舞った。
 粉砕された窓ガラスを粉雪のように舞い散らし、空中で二、三回転した後地面に激突し、爆発炎上した。
肌を炙る熱風。嗅覚を麻痺させるほど強いガソリンの匂い。緑色の空へと立ち上る真っ黒な煙と、怪物の目玉を思わせる真円の月。
放り込まれた地獄の中で、湊の心は奇妙に静まり返っていた。
目の前で両親が一瞬で炭化したことにも、この異常な状況に対しても恐怖は湧かなかった。頬は凍り付き、瞳は光を失い、顔は能面のよう。人間らしさと呼ばれるもののおよそ全てを凍りつかせてしまった少年は、故に、闇を裂いて走る幾筋もの火線を目の当たりにした時も動じはしなかった。その火線がマシンガンの弾丸が描いた軌跡であり、その標的が闇を纏った怪物だとわかっても、湊にはどうでもいいことだった。
何処か手の届かない場所から自分を眺めているような気分だった。
 
 だから、地面に膝を着いた自分を助け起こす二つの手の感触を感じた時は、急にそこから引っ張り出されたような気がして僅かに心が波立った。

 手の主は金髪碧眼の少女だった。湊より十は年上に見える。
 ビスクドールを思わせる美貌を持つ少女は、そのスカイブルーの瞳で湊をじっと見つめていた。白磁の能面は崩れなかった。
少女の手は金属のように固い。いや、よく見れば金属そのものだ。
炎に照らされた彼女の白い肌も、目を凝らせばマネキンめいた光沢を放っている。
彼女の頭の髪飾りから、肩の、足の関節から、身体の至る処から白煙が噴き出ていた。パチパチ、と電気がショートする音が聞こえた。
 そんな彼女の姿を見ても、湊は怖いともおかしいとも思わなかった。
 それはきっと、彼女が泣いているように見えたからだろう。
涙を流すことも表情を変えることも知らない機械の乙女に対して、湊が最初に感じたものが強過ぎたからだろう。
吸い込まれそうな位に青い瞳の奥を見つめれば、そこに宿る嘆きと悲しみの色が凍り付いた少年の心に小さなひびを入れた。
 油の中を彷徨う様に、小さな手が少女の頬へと伸びた。柔らかな曲線を労わるように撫でる。
 かつて自分の母がそうしてくれたように、出来る限り優しく。泣かないで、という気持ちを込めて。少女が小さく肩を震わせた。
それは、砕けかけた己の心を繋ぎ止めようとする愚かな代償行為だったのかもしれない。
機械の乙女は彼に何一つ返せない。両親も、それまで確かにそこにあった幸福も、小さな手が伝える体温ですら。
意味の無い行為だった。壊れかけた少年と壊れかけた人形の、無益なやり取りだった。


  ――だが、それでも。湊がこの少女の見えない涙を止めてあげたいと思ったこと。それだけは本当だった。








 カーテンの隙間から差し込む朝日が、目覚めたばかりの目に眩しかった。
 気だるい身体を難儀して起こし、重い瞼をどうにか開いた。
まず、自分の身体を見下ろす。寝巻き変わりのジャージを着た自分。それ以外のものは見えなかった。

「……」

 すう、と息を吸い、目を閉じる。視線に力を込めるイメージ。再び目を開けた。
 胸の奥に、灯が見えた。しばらくそのちろちろと燃える様をじっと眺め、やがてため息を吐く。
この灯は「見よう」と意識しなければ見えないものなのだ。それは昨日湊が知り得た事実の一つだった。
 あの後、少女から"紅世の従"や"トーチ"についての話を少し聞いた。
 周囲の世界から切り離された一種の因果孤立空間"封絶"。その中で人を喰らう怪物"紅世の従"。彼らが使役する"燐子"。
 そして、存在の消滅によって生じる世界の歪みを和らげる為に置かれる代替物"トーチ"。
荒唐無稽で信じ難い話ではある。しかし、何十人もの人間が怪物に喰われ、その怪物を年端もいかない少女が容易く斬り伏せ、怪物によって破壊された街の一角を苦も無く修復してしまったのを目の当たりにすれば、"紅世"とやらの存在に対して帽子を脱がざるを得ない。
 酷い話だった。あの怪物達はこの街で人を喰らい続けているという。
 そしてそれは、世界中何処でも当たり前のように起こっていることだという。全く以て酷いとしか言いようが無かった。だが。

『そういうものよ』

 不意に、昨日の少女の強い声が聞こえた気がした。
 厳然と事実のみを告げる、躊躇も迷いも無い強い声。
 
「……そうか」

 口に出して言うと、自分の中で重心が定まらずにぐらぐらと揺らいでいたものがすとんと腰を落ち着けたような気がした。
 代わりに肩が重くなったが、それでも昨日よりはマシな気分だった。
どんな不安や恐怖も、輪郭さえ掴めていればある程度は受け入れられる。
そういう意味ではあの少女の淡々とした態度は有り難かった。元より自分は死ぬ筈だった。
少なくとも、そうなっても後悔はしないと考えてはいたのだ。
あの少女の話によれば、自分は喰われた坂井悠二の代わりに人や世界との繋がりを当面保った後、やがてその存在感を無くしていき、最期には燃え尽きるらしいが……考えようによっては成り変わる以前と大差無い状態だとも言える。
ならば、今更おたおたすることこそおかしいのかもしれない。予感していたものの到来が少し遅くなるだけのことだ。
 この世に未練はある。順平やゆかりと馬鹿話がしたかったし、風花の作るお弁当の味見役もまだ任期の途中だ。
大学に進学する美鶴と明彦の門出を祝ってあげたかった。コロマルとまた散歩がしたかった。天田とフェザーマンRが見たかった。
そして、砂金を思わせる金髪と、吸い込まれそうな空色の瞳をした、誰よりも真っ直ぐでひたむきだった機械の乙女。
「人間」として生まれ変わった彼女と共に生きたかった。
 だが、自分は既に為すべきを為した。仲間達は約束を守ってくれた。それで十分だ。悪くない終わり方をしたと思っている。

 ……では、この街で"紅世の従"の犠牲になった人々は? 
 
 卓上時計を見る。七時四十分。登校にかかる時間を考えると、時間的な余裕は余り無い。
 湊はジャージを脱ぐと、ハンガーから制服を取って着替えた。
 鞄を持ち、腕時計をはめようとして、卓上時計より十分程遅れていることに気付いた。
"封絶"の中は世界の流れ、因果から一時的に切り離される。機械類とてその例外ではない。
その為、"封絶"の中にいた分時計が遅れてしまったのだろう。影時間とは違い、"封絶"の影響範囲は局所的なものでしかない。
その外では当然のように世界は動いているのだ。時計の進み方にズレが生じるのも当然の話だった。
 あの夕暮れの商店街で怪物に喰われなかった人々も、今頃このズレに気付いているのだろうか。
 気付いて、しかし大して気にも留めずにそのズレを修正してしまうのだろうか。
腕時計が脈拍のように分秒を刻む。その音がやけに耳に響いた。

「悠ちゃん、もう起きる時間よ!?」

 階下から千草の呼ぶ声が聞こえてきた。

「はい、今行きます」

 返事をすると、湊はドアを開けて階段を下りて行った。


 テレビの音がする居間に入ると、目玉焼きの乗った皿を食卓に運ぶ千草の姿が見えた。

「悠ちゃん、今日はゆっくりだったわね。どうしたの、やっぱり久し振りの学校だったから疲れちゃった?」
「ええ、まあ……。そんなところです」

 軽く頷くと、湊は椅子に座った。人を和ませるおっとりした笑顔を浮かべる千草も、続いて座った。
 湊の態度は「母親」に対するものとしては幾分硬いものだったが、千草は何も言わない。
退院して坂井家にやって来た時、砕けた話し方をすることに躊躇いを示したら、慣れるまでは無理しなくていいと言ってくれたのだ。

『……JR六社と国内航空各社の発表によりますと、JRの指定席の予約席数は前年比で五%の増加。航空の国内線の予約数が前年同期比四.五%増、国際線が同四.四%増といずれも好調で……』

 食卓の上にはご飯と味噌汁、海苔と目玉焼というシンプルかつオーソドックスな朝食が二人分用意してあった。湊と千草のものである。
 湊は手を合わせて食事前の挨拶をする前に、先程やったようにして視線に力を込め、千草を見た。
大丈夫だ。昨日確認した通り、彼女はトーチではない。安堵を覚えると同時に、益体も無い心配の気持ちが湧いた。
十五年間育てた息子が突然いなくなったら、彼女はどう思うだろうか、と。
 冷静に考えれば、どう思うはずもないのだ。そう遠くない内に、千草は自分に息子がいたということすら忘れてしまう。
彼女が息子の死を悲しむことはない。それに、幸いなことに彼女は高校生の息子がいるとは思えないくらい若い。
海外で働いているという夫もいる。この家を出て夫婦二人で新しい生活を始めることだって出来るだろう。
偽の息子が心配するようなことなど、何も無い。
湊に出来ることと言えば、千草が抱えることになる欠落が良い形で埋まるのを祈ることぐらいなものだった。

『……自然や文化の大切さを再確認するエコツアーが相次いで売り出されています。動植物の生態、貴重な歴史遺産などを専門ガイドから学びながら……』

 対面の千草は、相変わらず笑顔を絶やさない。その陽だまりのような温かさが、湊には辛かった。
 ツヤのあるご飯を口に運び、飲むと熱いと感じる位の理想的な温度で入れられた味噌汁を口に含んでも、その味がわからない。
昨日はあれほど美味しく感じたというのに。

「何か考え事?」
「いいえ、何でもありません。……ごちそうさまでした」

 湊は箸を置いて立ち上がった。食卓の上には朝食が半分程残っている。

「あら、もうお腹一杯なの?」
「……今朝は何だか食欲が無くて」

 歯切れ悪くそう言い残して、湊は居間を後にした。千草に何かを言われる前に。
 部屋へと戻り、鞄を引っ掴んだ。昨晩の内に翌日の用意はしてあった。
概ね自動的にそう振る舞える自分の図太さに対し、感謝と呆れを半々の割合で抱いた。

「行ってきます」
「いってらっしゃい」

 千草の声を背に、湊は坂井家を出た。バタン、とドアの閉まる音。一度、玄関を振り返った。変わったところは無い。何も無い。
 この家の子供が死んだというのに、変わったところは何も無い。
湊は踵を返し、駆け足で学校へ向かった。





 あとがき

  「風牙亭」に掲載されていた頃とは違う展開を予定しています。このことでは随分悩みました。



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