青白い光が、文字とも図形ともつかない奇怪な紋章を描いて走ってくる。
 それを認識したと同時に、周囲が一瞬にして赤く染め上げられた。夕焼けの赤などでは決してない、気味の悪い程鮮やかな真紅に。
 周りを壁のように取り囲み、その向こうを霞ませるのは陽炎の歪み。奇怪なのはそれだけでは無かった。
 周囲の何もかもが「静止」しているのだ。人も、車も、時計も。
歩道の段差に躓いて転んだ子供が手放したジュースの缶でさえ、空中に固定されてしまっている。
まるで、ビデオの再生中に停止ボタンを押したかのように。
 異常事態だった。ここは違う、と本能的に悟った。人が生きる世界の常識、法則、摂理といったもの。ここはそれらがまるで違う世界だ。
 かつて自分達が幾度と無く迎えてきた影時間のように。
 我知らず、拳を固く握っていた。かつてタルタロスでそうしていたように、警戒態勢のまま四方に視線を走らせる。
誰がどのような目的でこんなことをしているのかはわからなかった。だが、一つだけ確実なことがある。
生物はおろか物体すら停止してしまう世界で跳梁するモノが、危険でない筈が無い。
 背筋に冷たい戦慄が走ったその刹那、後ろから轟音が響いた。地面が揺らぎ、一瞬、地から足が離れたような気がした。。
 驚き、振り向いた湊はそこにいたものを見て絶句した。

「……な」

 そこにいたのは人形だった。外見はマヨネーズのマスコットキャラにそっくり。
その人形の傍らには、有髪無髪のマネキンの首を固めた玉がゆらゆらと浮いている。いずれも、大きさは人の身の丈の倍はある。
悪夢を通り越して冗談のような眺めだった。一体どういう偶然が働けばこんな馬鹿な眺めを見る羽目になるのだろう。
 右頬にぬるりとした感触を感じ、湊はそこに手をやった。指先に血が付く。
 恐らく、人形が落下してきた時に砕け散ったアスファルトの欠片が頬を掠めたのだろう。
指先に付いた血を見ると、右頬に微かな痛みを感じた。夢ではない。これは現実だ。
 人形が巨体を揺らしてはしゃぎ回った。
 文字通り息を止めた雑踏の中で巨大な人形が短い手足をばたつかせて踊る様は、怖気が走る程不気味な光景だった。
人形の口が、ぱっくりと耳まで裂けた。それに合わせて首玉がけたたましい声を幾重にもあげ始めた。
 人形達の、亀裂のように開かれた口。その口の中に吸い込まれていくものがある。青白い光の糸だ。
 何十、何百という光の糸を、人形達は口の中に吸い込んでいく。その糸の先にあるのは人間だ。薄白い炎に包まれ、燃えている人間だ。
湊の周りで、人間が一斉に燃え上がっていた。
 熱さは感じなかった。肉の焦げる嫌な匂いもしなかった。ただ、燃え尽きる寸前の蝋燭を思わせる異常に明るい炎が輝き、燃えていた。
 その内にある人々は服を焦がすことも、肌を爛れさせることもなかった。
だが、人形達が光の糸を喰らうにつれ、炎に揺らぐその姿がだんだんと輪郭をぼやけさせていく。
紗幕を通したように見える人々の姿は、やがて炎の中に完全に掻き消えていった。
 制服姿の少年少女が。サラリーマン風の男性が。ストリートファッションに身を包んだ若者達が。買い物帰りの主婦が、手を引かれる子供が。
 その全てが燃え上がり、燃え尽きていく。薄白い炎が燎原の火のように雑踏を満たしていった。
その時、湊は燃え広がる炎の向こうに見知った姿を見つけ、思わず息を呑んだ。
平井ゆかりが。ついさっきまで笑っていた少女が……!

「平井さん!」

 知らず、叫んだ。地を蹴って走り出す。一蹴りで一気に加速。矢の如く疾駆した。だが、遠い。たった数十メートルの距離が限りなく遠かった。
 頭上から人形の怪訝そうな声が響いたような気がしたが、知ったことか。
泥の中を泳いでいるような錯覚を感じた。平井の炎は急速に小さくなっていく。もう、まるで線香から立ち上る煙のように細く、弱々しい。
燃え尽きていく彼女に向けて、湊は手を伸ばした。後一歩。それで手が届く距離。
その後でどうするという考えがあった訳ではない。そうしたのは彼女はもう助からないという、頭で理解しかけている、しかし、信じたくはない
事実を否定したかったからなのか、それは彼自身にもわからなかった。
 指先が平井に触れる寸前、湊の眼前で彼女は文字通り消滅した。炎の中に溶け、光の糸となって人形達の口に吸い込まれていった。
 それが彼女の最期だった。
 その時突然、足が地を離れた。さっきのような錯覚ではない。土管ほどもある腕が湊の胴を鷲掴みにし、持ち上げたのだ。
その馬鹿げた大きさの腕の持ち主は、馬鹿げた大きさの瞳で彼をしげしげと観察していた。
胴を掴む力に遠慮などある筈が無い。みしみしと骨の軋む音が聞こえた。

「ん〜? なんだいこいつ?」
「さあ、ご同業では、ないわね」
「でも、封絶の中で動いているよ」
「"ミステス"……それも飛びっきりの変わり種ということかしら。久し振りの嬉しいお土産ね。ご主人様もお喜びになられるわ」
「やったあ、僕達、お手柄だ!」

 人形がズシンズシンと足を踏み鳴らしてはしゃいだ。元の形がユーモラスなだけに、却って増幅された不気味さがある。
 傍らにニタニタと笑う首玉が浮かんでいれば尚更だった。

「じゃ、さっそく……いっただきまーす!」

 胴をがっちりと掴んでいる腕は、湊が全身の力を振り絞ってもビクともしない。
 バッタの足をむしり取って遊ぶ子供のような無邪気な殺意が、杭となって肺腑に突き刺さった。
 眼前に、耳まで裂けた口が迫る。人形の口は人間一人を軽く一呑みに出来る大きさだった。
 ペルソナを召喚しようにも、今この手に召喚器は無い。湊の胸を絶望が暗雲のように覆っていく。
打つ手無し。それでもせめて、最期の瞬間こんな奴らに怯える様など見せたくはなかった。
湊は視線を逸らさない。屈しないという意思をそれに込めた。今迄の出来事が走馬灯のように目の前をよぎり。

 ――連休の予定を楽しそうに口にしていた平井ゆかりの顔を思い出した。

 ふざけるな!
 心中で叫んだ罵倒の言葉は目の前の敵に対するものであり、抵抗を諦めて無様に喰われようとしている自分に対するものであった。
彼女には、彼女達にはきっと為したいことがあった。為すべきことがあった。希望や夢、生きる証というもの。
幾多の出会いと別れを繰り返し、紡いでいく未来の先にあるもの。それはこんな奴らに供物として捧げられるべきものだったのか。
そんな筈は無い。少なくとも自分は絶対に認めない。
 生温かい息が顔に届く。他の人間達とは違い、自分は直接喰う気らしい。
 湊は眼前の敵を倒し得る力のことを思った。思い切り握り締めた拳に爪が食い込む。人形達を睨みつける瞳に、炎の色が映った。
精神の深奥に潜むもう一人の自分を強く思い描く。
胸の中は熱く、頭の中は冷たく。目の前の景色がぐにゃりと歪み、脳を直接揺さぶられるような感覚。
 腹の底から声を出し、吼えた。
 湊の身体から発せられる透明な輝き。砕け散った硝子のような輝きが、湊の身体の周りで二重の螺旋を描く。
緩やかに上へと昇っていくそれは、まるで天へと伸びていく鎖のようにも見えた。

「ひっ――!」

 先程までの余裕を何処かに置き去りにしてしまったような驚愕の表情を浮かべ、人形が悲鳴を上げた。
 人形の目は、湊の背後で形を取りつつある「何か」を捉えていたのだ。
人形にはそれの正体が理解出来ない。ここにあるのは燃え滓なのだ。
のこのこと自分達の前に飛び出してきて、あっさり捕まるような間抜けな"ミステス"。
捕まえた時だって並のトーチ程度の力しか感じなかった。まさに、葱を背負ってきた鴨。
自分達が手柄を立てるためだけに現れたような存在。その筈だった。
だというのに、これは一体何なのか。顕現しつつあるモノの正体は掴めない。だが、確実にわかることがあった。

 ――これは、一瞬で自分達を殺し尽くせる力だ。

 恐怖に駆られ、人形が衝動的に腕を振りかぶった。地面に叩きつけて殺してやろう、などと考えたわけではない。
 とにかく、手の中にある危険物を遠くにやりたい一心で腕をしならせて――。

 その肘から先が、ばっさりと断ち切られた。

「ぎゃあああああぁぁぁぁぁっ!」

 人形が耳をつんざく悲鳴を上げた。切断面から薄白い火花が迸った。断ち切られた腕は、湊を掴んだまま落下した。
 幸い湊を掴んでいた巨腕がクッションになったため、湊の身体にさほどの衝撃はなかったが、それでも二、三メートルは落下している。
湊は息を詰まらせ、腕の中から這い出した。顔を上げた湊の目の前で、巨腕が蛇の如くのたうち、薄白い火花となって散った。

「誰っ!?」

 うろたえて周囲を見回す首玉を、小さな人影が上から蹴り潰した。神経に障る叫び声。
 猛烈な勢いで地面に叩きつけられ、首玉が地面に陥没する。凄まじい脚力だった。
湊はその小さな人影の正体を確かめるために、立ち込める土煙と火花の先に目を凝らした。 
 
 薄白い光の先に、それを掻き消す紅蓮の光があった。
 小さな、しかし、圧倒的な力に満ちた背中。
 灼熱の赤を点す、腰まで伸びた長髪。
 黒いコートが火の粉を散らし、着地の余韻になびいて揺れている。
 
 少女、らしい。
 コートの袖先から覗く小さな手には、少女の身の丈に匹敵する程長大な刀が握られていた。刃紋艶めかしく、反りも美しい見事な日本刀。
刀には人を魅了する魔力が宿るというが、そんな妖刀が存在するとしたらきっとこんな美しさを持った刀だろう。
 少女が振り向いた。外見から判断するに、年の頃は十二歳前後。
 だが、その整った顔立ちに子供特有のあどけなさは微塵も無い。無表情に湊を見据える瞳には強い意志の光があった。
その、髪と同じく灼熱の赤を点す瞳。その奥を覗き込んだ時、何故だか悲しみにも似た寂寥感が胸に込み上げた。
目が合った時間は一秒も無かった。少女は、苦悶の叫びを上げ続ける人形へと向き直る。

「どう、アラストール?」」
「"従"ではない。いずれもただの"燐子"だ。」

 凛とした中にも幼さの残る声が響く。それに答えたのは遠雷のように重い響きを持った男の声だった。姿は見えない。
 気の所為でなければ、その声は少女が首から提げているペンダントから響いていた。
そのことを湊が疑問に思う前に、人形が苦悶の叫びを怒りの叫びへと変えた。

「ち……ちっくしょおおぉぉ! よくもっ! よくも僕の腕をを! お前なんかぁ、潰れちゃえ〜!」

 両腕を――右腕は肘から先が無かったが――威嚇するように広げながら、人形が突進してきた。
 少女はその無謀な突進を軽く見上げると、右手を振り、刀の切っ先を後ろに流した。次の瞬間、少女の足元が文字通り爆ぜた。
地面に足跡の焼印を残し、少女は弾丸の如く疾駆した。否、飛んだ。刀の重さなどまるで意に介さない、鋭い跳躍。
 白刃が閃いた。刃ではなく少女の視線がそれを為したかのような、一瞬の出来事。
 人形の左腕と左脚がずり落ちたのと、少女が反対側に軽やかに着地したのはほぼ同時だった。

「ぎえっ、あ?」

 人形が地に倒れ伏した。立ち上がろうと必死にもがき、襲撃者から少しでも距離をとろうと無駄にあがく。
 コツコツ、と軽い足音が静止した空間に響いた。その足音は人形にとって死神の足音も同然だった。

「な、なんだ! アイツなんだ! なんだアイツ……!」

 足音の方を振り返ったその顔には恐怖が張り付いていた。意味の無い叫びを上げる。
 止めを刺すべく、少女は悠然と獲物に近付く。途中、血振りをするかのように刀を左斜め前に振り下ろした。
 その動きに従い、炎髪がなびき、火の粉が舞った。ゆっくりと気配が高まっていくのがわかった。
殺しの気配である。業火の化身のような少女が、断罪の刃を振るう気配である。

「そうか、お前は……!」

 はっと思い当たったように、人形の目と口が大きく開かれた。しかし、人形の口がその先を語ることは無かった。
 横薙ぎの一閃が人形の首を跳ね飛ばしたからだ。驚愕の表情を浮かべたまま首は宙を舞い、火の玉となって爆ぜ、消えた。
首と泣き別れになった体は白く燃え上がり、炎の中にその姿を溶かしていった。
 地面に燻ぶる白い炎がバチバチと音を立てていた。この場に人喰い人形がいた名残だ。
 少女が再び振り向いた。先程と変わらぬ無表情だった。
こちらを見据える二つの灼眼に言い知れぬ圧力を感じ、湊は身体の筋肉を強張らせた。

「これ、"ミステス"ね」
「うむ。しかも少々風変わりと見える」

 希少な、あるいは厄介な代物を目の当たりにした時の声で、少女と姿の見えない誰かが言葉を交わす。
 この赤い空間のこと。怪物達のこと。彼女達の正体。湊が彼女に尋ねたいことは山ほどあったが、質問の数が多過ぎてどれ
から尋ねたらいいかわからなかった。疑問が塊となって喉を塞いでいる。
まずは、助けてくれたことに対するお礼を述べるのが筋か。
まとまらない思考がどうにか次の行動を弾き出したその時、少女が刀を大上段に振りかぶった。
刀に込められた殺意は一瞬にして膨れ上がり、湊が何かを思うより早く、斬撃が放たれていた。
 だが、完全に音を置き去りにしたその凄まじい斬撃が、湊の身体を一刀両断にすることはなかった。

「あああぁぁぁぁっ!」

 甲高い悲鳴が響いた。湊の背後で何かが落ちた。振り向いた先には、女性のものらしい腕が転がっていた。
 思わず目を見開いた湊の前で、その腕が薄白い火花となって消えていく。
その火花の向こうで、女性がうずくまっていた。斬られた腕を押さえ、苦しげにうめいている。
切断面からはさっきの人形と同じように薄白い火花が散っていた。
苦悶の声を上げる女性の髪は滑らかな質感を持つ金髪。染み一つない肌は不自然な程に白い。
美人のカテゴリに分類される、しかし、どこか作り物めいた相貌は苦痛に歪んでいた。いや、本当に人形なのか。
 膝を付く美女に、少女は一歩前に歩み出て刀の切っ先を突き付けた。
 憎悪の視線を涼しげな顔で受け流しながら、口の端を歪め、嘲るように言う。
 
「ふん。せめて"ミステス"の中身だけは頂くってわけ? こんなに簡単に釣れちゃうと、かえって拍子抜けしちゃうわ」
「炎髪と灼眼……! "天壌の却火"アラストールのフレイムヘイズか……! この討滅の道具め!」
「そうよ。だからなに?」
「私のご主人様が、黙ってはいないわ!」

「そうね。すぐに断末魔の叫びを上げることになるわ」

 加虐的な笑みを浮かべながら、少女は背中に触れるほど刀を大きく振りかぶった。

「でも、今はとりあえず、おまえのを、先に聞かせて」

 刀身に炎が走った。殺気が少女から立ち昇る。美女は屈辱に表情を歪めながら、唇を真一文字に引き結んだ。
 その時、美女の残った右腕が素早く動いた。
 
「ふっ!」

 跳ね上がるようにして掌打を放つ。相手がただの人間であれば十二分に仕留めることの出来る速さだった。
 だが、この少女にとってそれは余りにも遅い。遅過ぎる。この程度では攻撃とも呼べない。
悪あがきにしか見えない美女の最後の一撃を、少女はもろともに叩き斬った。
左の肩口からばっさりと袈裟斬りにされ、美女は火花を散らしながら、仰け反って倒れていく。
 湊は倒れていく美女の表情を見た。……笑っている。そのことに疑問を感じ、次に破壊されれば形を失って燃え尽きる彼女達の中で、一体だけ形を保っているものがあることに気付き、それがある筈の場所を見やった。
首玉が見当たらない。陥没した道路が見えるだけだ。あれは何処に行った?
 それは少女の背後から必殺の機会を窺っていた。顔の何個かが砕け、疵と土埃に塗れながらも、首玉は今まさに少女に襲い掛かろうとしている。
 
「待て! 後ろだ!」

 姿の見えない誰かの警告が飛ぶ。少女は振り向きざま遠心力を帯びた斬撃を首玉に見舞った。横一線に切り裂かれ、首玉が絶叫する。
 叫びながらふらふらと空中を漂い、やがて、爆発四散した。火の雨がぱらぱらと地面に降り注いだ。

「ちいっ!」

 声のした方を見上げれば、粗末な人形が空中に浮いている。茶色い毛糸の髪。ボタンで出来た目。糸で縫われた口。肌色のフェルトの足には靴も指もなかった。
 倒れ伏している美女の身体の中は空洞だ。少女に斬られた時中から脱出したのがあの人形なのだろう。
 粗末な人形はどうやったのか舌打ちをすると、光に包まれ、消えた。美女の身体の方も燃え尽きて消えていく。

「逃げられちゃったわね。あの口振りだと案外大きいのが後ろにいそうだけど」
「久々に"紅世の王"を討滅できるやも知れぬ」

 声色に微かに失望の色を滲ませながら、少女がまた見えない誰かに話しかける。
 その誰かの声がまた理解できない単語で湊を混乱させた。
粗末な人形が消えたのを確認すると、少女は刀をコートの中に仕舞い込んだ。
鞘も無しで。どう見てもあの長さの刀が入るスペースなどコートにはないというのに。

「君は……」

 立ち上がり、湊は少女に声を掛けた。少女はその呼びかけを無視した。辺りの惨状を見回して肩をすくめる。
 散らかった部屋を見た時程度の反応だった。

「さっきの見た? あの"燐子"、ちゃっかり手下が集めた分、持ってちゃった」
「うむ、抜け目のない奴だが……まあ、この"ミステス"の中身の方が危険性は高い。こっちを渡さなかっただけでもよしとするべきだろう。討滅自体はいつでも出来る」
「……確かにね」

 少女は湊を睥睨しながら頷き、右の人差し指を天に向けて突き立てた。突き立てた指に強い光が点る。
その光に同調して、路面にまばらに散らばっていた小さな灯が、一斉に燃え上がった。湊は思わず身構える。
その灯はふ、と幻が湧くように人の形を取り戻していた。平井ゆかりの姿も、その中にあった。
 無事だったのか、という安堵の気持ちを抱きかけた湊はしかし、棒立ちに立つ彼らの胸の中心に小さな灯を見つけて愕然とした。
 その灯は最初に怪物に襲われた際、燃え上がった炎と同じもののように思える。だが、その灯は今にも消えてしまいそうな位弱々しい。
喰われてしまった分、減った。一番納得の行く解答が導き出された瞬間、怖気が走った。
自分が底知れぬ暗闇の淵に足を掛けているような、そんな気がしたのだ。

「"トーチ"はこれでよし、と。直すのに何個か使うわね」
「うむ……それにしても、派手に喰いおるわ」
「奴の主って、よっぽどの大喰いなのね」
 
 少女の指先に点った光が、無数の火の粉となってぱっと弾けた。弾けた火の粉は、この陽炎の壁に囲まれた空間の中に舞い散っていく。
 それは怪物と少女の戦いの痕跡に触れると、そこに微光を宿らせた。じんわりと微光が周囲に広がっていく。
その全ての箇所が、魔法のような修復を始めていった。ボロボロになった道路が、へし折られた電柱が、ひび割れたショーウインドーが、割れた街灯が、時間を巻き戻すように元通りになっていく。焼け跡や煙さえ消えていく。
呆然とする湊の目の前で、修復はどんどん進んでいき、たちまち商店街は元の姿を取り戻した。
胸に小さな灯を点した人間達がいる以外は、完全に元通りだ。

「終わり、と」

 少女がおもむろに告げ、腕を下ろした。光と衝撃が沸き起こる。湊は反射的に目を瞑った。
次に聴こえたのは、カラン、という缶の落ちる音。目を開ければ、そこには夕焼けに赤く染まった商店街と、ざわめく人の流れがあった。
空を覆っていた赤い天蓋も、地面を走っていた奇妙な紋様も、跡形もなく消えていた。
 何処も壊れていない。誰一人として騒いでいない。自分の見たのは夢か幻だったのか? そんなはずはない。
 湊は、その違いをはっきりと感じていた。道を行く人々の中に、胸に小さな灯を点した者が何人もいる。
自分と一緒にあの紅い空間の中に取り込まれた人々だ。それに、よく見ればいなくなった者達もいる。
すぐ近くにあるコンビニの前には学生が数人たむろっていたはずなのに、彼らの姿が見えない。ただ、鞄と煙草の箱が落ちているだけだ。
 その時、湊は見た。手を繋いで歩く一組の親子。その子供が掻き消えていく様子を。真ん中に挟んだ子供が文字通り消滅してしまったというのに、その両親は何事もなかったように歩き続け、やがて交差点を曲がって見えなくなった。

「……!」
 
 そんな光景を見て平静でいられる訳がない。湊は何の説明もせず立ち去ろうとしている少女の後ろ姿を見つけると、勢いよく駆け出した。

「待ってくれ!」

 自分の胸元までしかない少女に、湊は必死に呼び掛けた。さっきと同じように、少女は湊を無視した。
 振り向いて顔を見ようともしない。黙々と歩き続ける。

「さっきの怪物達は何だ? あの赤い空間は? 何故誰も気が付かない?」

 彼としては異例な矢継ぎ早の質問を、少女は黙殺した。年端もいかない少女に訳のわからない質問を投げつける湊に、道行く人々が振り返って不思議そうに見ている。こうも無視され続けると流石の湊も腹が立ってきた。
とにかく表に出にくいだけで、彼にも人並みに喜怒哀楽の感情はあるのだ。不安も手伝って、少女の肩に手を掛けようとする。

「君……っ!?」

 手が肩に行く前に、手首を取られていた。勢いよく捻り上げられ、手首に激痛が走った。
少女の優美な指先は、その見た目からは想像もつかない怪力で湊の腕を押さえ付ける。握り潰されるのではないかと思う位の強い力だった。血液の流れが止まり、関節が軋む。余りの痛みに苦悶の声が漏れた。

「よせ」

 遠雷のような一声で、湊は激痛から解放された。少女は悪びれる様子もなく、冷たい目で湊を見る。
 まるで人格を認める気のない、最初からそんなものなどないと認識しているような、冷たい目だった。
 湊にはここまでされる理由がわからない。だが、少女が本気だったことはわかった。
ペンダントの声の制止がなかったら、自分の腕はへし折られていただろう。

「一応試してみただけよ、アラストール。それに、コレ、うるさいし。消してもいい?」
「な……」

 朝食のメニューを注文するような口調で自分を殺害する意思を述べた少女に、湊は呆気にとられた。冗談を言っているようには見えない。怪物達を躊躇なく斬った時の危険な色が、少女の目に宿っていたからだ。腹の底から冷気が満ちていく。

「迂闊に"ミステス"を開けてはならん。"天目一個"の時の騒動を忘れたか」
「ふん」

 鼻を鳴らして、少女は湊の手を離した。

「もちろんわかってるけど、コレ、さっきからうるさくて」
「真実を教えてやればよい。それでコレも黙るだろう」
「何なんだ一体。さっきからコレコレと人をモノみたいに」

 余りといえば余りの扱いに、湊が憮然とした顔で抗議の声を上げた。少女に掴まれた腕は思い切り内出血して紫色になっている。
理不尽な暴力に対する怒りが込み上げて来た。憤る湊に、少女は冷淡に告げる。

「そう。お前は人じゃない。モノよ」
「……なに?」

 一瞬、何を言われたか理解できなかった。ここ数日、いや、もっと遡れば十年前から「常人には理解しがたい」目にはずっと合ってきたが、その中でもこれは極め付けだった。言葉が脳に浸透していかない。自分の胸を見なさい、という少女の言葉が耳に遠かった。
それでも少女の声に従い、胸を見下ろすと、そこには小さな灯が点っていた。街の人々と同じものだ。
 世界に皹が入ったような気がした。言葉もなく立ち尽くす湊に、少女は更に続ける。

「お前だけじゃない。身体の中に明かりが見えるのは、皆そう。"紅世の徒"に存在を喰われて消えた人間の代替物、"トーチ"なの」
「……代替物?」

 燐子。紅世の徒。存在。喰われた。消えた。言葉が繋がり、意味をなし、頭の中に絶望の絵を描く。
理解は死刑台の階段を上る一歩だ。喉がひりつく。血の気が引いていくのがわかる。その一方で冷静な判断を下す自分がいた。
不気味な実感が、湊を押し潰そうと迫ってくる。

「急に存在が消えると世界のバランスが狂うでしょ。だから、衝撃を和らげるために代わりを置いておくの。一時的にね」
「……それは、つまり」

 続く一言に希望がないことは、湊自身が一番よくわかっていた。
 言い淀んだのは、認められないのではなく、認めたくないという気持ちからだった。

「本当のお前は存在を喰われてとっくに消えている。今のお前は残り滓よ」

 染み渡る言葉は遅効性の毒のようだった。歪なパズルのピースが早くも欠け落ちようとしている。そんなイメージが浮かんだ。
 胸の内の動揺を抑えるが如く、ひどくゆっくりと言葉を吐き出す。

「……本当の『坂井悠二』が、とっくに死んでいる?」
「そうよ」
「……"紅世の徒"に喰われて死んだ?」
「そうよ」

 厳然と事実を述べる少女の声が、湊を打ちのめした。力無く建物の壁に寄り掛かる 自分の心情を形容する術を、湊は持っていなかった。 喪失感。悲哀。混乱。絶望。それらの感情がない交ぜになって渦をつくり、湊を飲み込んでいく。
坂井悠二は死んだ。平井ゆかりも死んだ。"紅世の従"にその存在ごと喰われてしまった。
そして、ここにいるのは彼の存在の残り滓ですらない。
ここにいるのは、何の因果かそれに取り憑いてしまった、彼の姿をした化け物だ。
 湊の胸中を知る者はいない。目の前の少女でさえ、それを知ることは無い。無力感が彼を苛んだ。
 うなだれる彼の前を、人々が通り過ぎていく。自分が代替物であることを知らず、死んでしまったことを知らず、遠くない将来消え失せる運命にあることを知らない人々が。
 夕暮れの光景にトーチの灯が混じる。酷く悲しい光景だった。
 化け物を潜ませ、人が喰われ、しかし人はそれと知らない世界。
 誰かに覚えていてもらうことさえできず、消えてしまった彼ら。そして、消え行く運命にある自分。

「……酷いな。全く酷い」

 空咳にも似た呟きが意味も無く口を突いた。

「そういうものよ」

 返す少女の言葉に一片の慈悲も無かった。
 現実とはシンプルな事実の集合体であり、それ以上のものでもそれ以下のものでもありはしないのだ。



あとがき

 本当に久し振りに更新です。
 ペルソナ4、面白いですね。登場人物達も皆魅力的で、プレイしていて楽しいです。やり込み要素も多いし。



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