吉田一美の飼っている豆柴が旅行先から自力で自宅帰還を果たしたことがある、というエピソードを平井ゆかりが語り終えた頃、三人は一年A組の教室に着いた。

「坂井、久し振りだな。もう大丈夫なのか?」

 平井の隣の席に着き、鞄から教科書類を取り出していた湊に、眼鏡を掛けた少年が話し掛けてきた。
 多分、彼が吉田の言っていた池速人なのだろうな、と湊は思った。池のあだ名は"メガネマン"。そこからの推測である。
その推測は当たっていた。

「ああ。おかげさまで」
「皆心配してたんだぞ。お前が突然倒れたって聞いた時は」
「復活のタイミングはちょっと悪かったかもしれないけどな」

 池の後ろから体格のいい少年が顔を出した。大柄だが、顔には愛嬌があるので粗暴には見えない。
 その隣に立っているのは、彼とは対照的に容姿の華奢な少年だ。美を付けてもいい容姿だが、どことなく軽薄っぽい。
 こちらの方は少し考えたが、多分田中栄太と佐藤啓作だと判断した。吉田の話からイメージした通りの二人だったからである。
こちらの判断も正解だった。

「今日、何かあるのか?」
「一限目から数学のテストだよ。朝っぱらから気力削がれるよな。どうせ一月後には中間テストが控えてんだから、こんな半端な時期にわざわざやんなくなったっていいのにさ」

 げんなりした調子で佐藤が答えた。湊が周りを見渡すと、教室の大半は教科書やノートを開いて最後の追い込みを掛けている。
 そうしていないのは、この机の周りくらいなものだろう。
池は日頃から学業に励んでいるので今更慌てない。佐藤と田中は赤点さえとらなければいいと思っていたので今更焦らない。
そういった違いはあるものの、彼らにとってはテスト開始まであくせく数式を頭に詰め込むよりも、久々に顔を見た同級生と話をする方が大事だということは一致していた。
 うんうん、と腕を組んで田中が大袈裟に頷いている。平井がそれを見てくすりと笑った。

「あー、復活早々大変だね坂井君。頑張って」

 平井が励ましの言葉を言い終わるか言い終わらない内に、ガララ、と黒板側のドアを開いて教師が入って来た。
 何がそんなに不服なのか尋ねてみたくなるような不機嫌な顔で。
スクエア型フレームの眼鏡を掛けた中年教師は、つかつかと歩いて小脇に抱えたテスト用紙を教壇の上にダンっと置くと、「日直!」と無愛想に指示を飛ばした。彼の広い額がひくついていた。それを受けて今日の日直である中村公子が立ち上がり、教室に号令を掛けた。
 起立、礼。椅子を引く音、生徒達が立ち上がる音、再び座る音が順に朝の教室に響いた。

「……何か、先生不機嫌だね。どうしたのかな?」

 ひそひそと隣の席の湊に囁いた平井は、直後に飛んできた教師の厳しい叱責に首をすくませた。
 彼にどんな嫌なことがあったのかは定かではないが、不機嫌であることは間違いなかった。
 答案用紙が各自に配られた。教師の合図と共に、皆が一斉に伏せていた用紙を開けて問題に取り掛かった。
湊としては、別段頭を悩ませる必要は無い。彼は月光館学園でトップクラスの学力の持ち主だ。
しかも、問題は一年生の時既に習った内容なのである。走り出したペンは止まらないというものだ。
 問題を解きながら、月光館学園は色々な意味で奔放な学校だったのだなあと感慨にふける余裕もあった。
 例えば、歴史の授業だ。担当の小野先生は熱狂的な戦国マニアで伊達政宗マニア。あだ名は小野ムネ。金色の三日月の前立てが印象的な兜を愛用していた。彼の出す試験問題は政宗関連のものばかりで、受験を控えた三年生には受けが悪かった。
総合学習の時間に黒魔術の講義を行う教師もいたので、それよりはマシだったのかもしれないが。
 ……だが、未履修問題に世の高校が揺れている昨今、何故総合学習に黒魔術の講義なのか? 
 しかも、夏休みの五日間の補習授業の内、何故丸々二日も魔術講義に費やすのか?
私学とはいえよく問題にならなかったものである。
 吉田達が聞いたら目を丸くしそうな月光館学園の授業風景に思いを馳せながら、湊は順調に問題を解いていった。
 各々がシャープペンシルを走らせ、解答欄を埋めていく。シンと静まり返った教室に聞こえるのは、ペンを走らせる音だけ。
机の上から消しゴムを落とした生徒が手を上げて、教師にそれを拾い上げる許可を求めていた。
三十分以上時間を残して全ての解答欄を埋めた湊は、解答の見直し作業を始めた。



 四限目の終了を告げるチャイムが鳴り、英語教師が教科書の次のページを開く手を止めた。

「今日はここまで。練習問題は宿題にするから、ちゃんとやっとくように。ここは中間テストにも出すぞ」

 うとうとして「中間テストにも出す」という部分しか聞き取れなかった生徒達が何人か、隣席の生徒にどの問題か尋ねていた。
 湊はやや猫背気味の背をうーんと伸ばした。昼食はどうしようかと考え、購買部にでも行くか、と決める。
お金のことは問題無い。千草から昼食代として幾許か貨幣を手渡されている。

「今朝のニュース見た? まだ地味に流行ってるらしいね、あのカルトは」
「ニュクス教、だっけ。無気力症も潮が引くみたいに消えちゃって、破滅の予言とやらも結局当たらなかったんだから、いい加減目え覚ませばいいのに。そのエネルギーを何で有効に使わないかねえ」

 さて、と立ち上がりかけて、教室の最前列、左前方で机を寄せ合って弁当の包みを広げている二人組の話が耳に入った。
 ニュクス教。自らニュクスの代弁者を名乗るタカヤの言葉を受け、それのもたらす破滅と再生に世界の希望を見出した集団である。
昨年十二月頃から綾凪市を中心に広がり、一時は信者によるペイントと貼り紙とで街中が汚されるという事態にまで発展。
一種の社会現象となった。今では信者達の活動も流石に縮小してきてはいるが、それでも根強く活動を続ける者達もいる。
特別課外活動部は、世直しを行った訳ではないのだ。彼ら全員の心を変えることまでは出来ない。
 
「あいつらのカリスマもいつの間にか失踪しちゃったしね。ちょっと前までテレビじゃ富山の……えっと、何市だっけ?」
「綾凪市。ニ十年位前から開発が進んだ街だよ。十年位前、埋め立てで作られた人工島と昔からあった巌戸台地区っていうところを繋ぐ"ムーンライトブリッジ"っていう橋が開通してから一気に発展した街」

 思わぬ所で地元の地名が出て、湊は持ち上げかけた腰を下ろした。
 
「そう、その綾凪市。ショッピングモールとか神社の境内とか、所構わず気持ち悪い張り紙がしてあったり、ニュクス教のビラがバラ撒かれてるところがテレビで映ってた。何であんなことするかねえ」
「そんだけ暇なんでしょ。……でも、あいつら言うところの"滅亡の日"に全国各地で交通事故やら何やらが多発したってのが、不思議といえば不思議だよね。ニュースじゃ集団ヒステリーとかなんとか言ってたけど」

 湊はそれを聞いて複雑な気分になった。昨年の五月、モノレールを乗っ取ったシャドウと戦った時もそうだったが、普通の人間は実際には何が起こったのかなど知りようがないのだ。車や電車の運転手が事故を起こせばそれは本人の責任。
よくても当時全国を包んでいた異様な空気に当てられて精神が不安定になっていた、と解釈されるのが精々だろう。
それで亡くなった人々も少なくはないというのに、真相は永久に闇の中だ。話したところで誰も信じない。
最早影時間は訪れず、タルタロスは消滅し、シャドウが出現することもないのだから。
 どの道、詮無いことだった。そこまで責任を持つ義理など特別課外活動部の誰一人として負っていないのだから。
 だが、湊はそうして死んでいった人々がいるということを今まで失念していたことに、後味の悪いものを感じた。
肩に圧し掛かる重いものを振り払うように、湊は席を立った。
 教室から廊下に出た。目指す購買部は校舎一階の端にあった。同じく購買部を目指す生徒達の流れに乗って廊下を進んだ。
 廊下の向こうに見える目的地には、既に黒山の人だかりが形成されつつあった。それを見て、湊は少し後悔した。
今からではあまり戦果は期待出来ないかもしれない。
 結局、購買部ではあんぱんとカレーパン、それにミニパックの緑茶を購入した。
 目ぼしいものがそれ位しか残っていなかったのだった。まあ、昼食が手に入っただけでも良しとしよう。
気を取り直して、湊は来た道を戻った。パンとお茶の入った袋を左手に提げ、右手を制服のポケットに突っ込んで。

「あ、坂井君」

 湊が教室に着くと、平井が手招きをして彼を呼んだ。彼女の周りでは、池、田中、佐藤、それに、すらっとして背の高い少女が机を寄せ合って昼食を取っている。最後の一人は緒方真竹、通称『オガちゃん』だった。女子バレー部一年生で唯一のレギュラーというスポーツ少女である。
 平井に呼ばれるまま、湊は席に着いた。机の上にパンとお茶の入った袋を置いた。

「何か、この面子が揃うのも久し振りって感じだな」

 田中がしみじみと言った。佐藤も続いて口を開く。

「ま、元気になって何よりだ。……そういや、坂井、一限目のテストどうだった?」
「まあまあだな」

 湊は当たり障りの無い返事をした。それを聞いた緒方が、肩の力が抜け落ちたような声を出して嘆く。

「あたし全然ダメだったよ〜。ちょっと難し過ぎない? アレ」
「そうですね。私も今回はちょっと……」

 学生としての社交辞令、という訳ではなく、吉田が控え目に同意した。平井がうんうんと頷いている。
 実際、このクラスの大半の生徒が結果を嘆く程度には、難易度の高いテストだった。
この面子の中で態度に余裕があるのは、男子陣だけである。
湊と池は結果に不安を持っていない、佐藤と田中は頭を悩ます程結果に興味が無いという違いはあったが。

「確かにな。森山、何か今朝はカリカリしてたから、八つ当たりであんなに難しくしたんじゃないかと思ったよ」

 コンビニ弁当のフタを開けながら田中が言った。それに池が反論する。

「テストがあるっていうのは前々から言ってたことだし、それはないよ。でも、何であんなに不機嫌だったんだろう?」
「あ、それ、田中の言う通り八つ当たり。バレー部の子達に聞いたんだけど、昨日、担任してるクラスの子が飲酒と深夜徘徊やらかして補導されたんだって。それで真夜中に呼び出されたもんだから、イライラしてるらしいよ」

 緒方が傍迷惑な事実を述べ、それを聞いた佐藤が顔をしかめた。

「全く。関係無い俺らに当たり散らすことないのによ。そんなんだからデコが広くなるんだぜ」

 最近、とみに砂漠化が進行している森山の額。
 人の身体的特徴をあげつらうのはいかがなものかという向きもあろうが、とばっちりを喰らった方としてはこれ位言いたくもなるだろう。
赤点の者は補修プリントをやらされる羽目になる、というおまけ付きなら尚更だ。
迫る大型連休をそんなもので潰したくはない、という思いは共通だった。何処の学生だろうと変わりはしない。
 湊は目の前で行われているなんということのない級友同士のやり取りを見て、月光館学園での昼食風景を思い浮かべた。
 順平と交わした馬鹿なやり取り。それを見るゆかりの的確な突っ込み。そういえば、アイギスがお弁当を作ってきてくれたこともあった。
 あの時はパンやコンビニ弁当ばかり食べている自分の食生活を心配した彼女に、疲れからつい「なんでもいい」とぞんざいな態度をとってしまったのだ。彼女はわざわざ希望のメニューを聞きにきてくれたというのに。
結局、あの時は自分の言動でアイギスを傷付けてしまったのではないか、という心配は全くの無駄な配慮だった。
ゆかりを初めとする級友達による徹底的な弾劾も無益なものだった。アイギスの口から「忌憚無く言わせていただければ、この上なく無駄な配慮であります。ご苦労様でした」というセリフを聞かされたのが実は一番のダメージだった。
その日は彼女手製の美味しいナン(どうでもいいが、ナンが食べたかったら普通「ナンでもいい」ではなく、「ナンがいい」と言うのではないか、とは思った)と荒垣先輩手製の美味しいカレーを味わうことが出来たのだが、悪いことをしたと今でも思う。
自分を心配してくれた彼女にいい加減な態度を取ってしまったことには違いないからだ。……皆は元気にしているだろうか。
 田中が大声で話す。佐藤が混ぜっ返す。池が締める。ゆかりと緒方は突っ込みの係だ。
 吉田は時折小さく笑い、しかし、会話には加わらずに弁当をつついていた。

そうしている内に、話題はテストの結果という憂鬱な気分になるものから、連休の予定という明るいものに移り変わっていった。
湊はそれに気付けない。

「坂井君?」

 だから、周りが食事の手を止めて自分に視線を集中させているのに気付いた時、湊は困惑した。
 平井が怪訝そうな表情で彼の顔を覗き込んでいる。動揺から、彼はつい口を滑らせてしまう。

「……坂井?」

 言ってから「しまった」と思った。何て間抜けだ。授業中には気を付けていたのに、と自らの不覚を悔やむ。
 隣で吉田がはっと息を呑む気配がした。胸を突かれたような感覚。

「君のことに決まってるじゃない。他に誰がいるの。……どうしたの? やっぱり、まだ調子悪い?
「いや、なんでもない。少し考え事をしていただけで……何の話だった?」

 やや強引に話を戻す。平井はその返事に少々腑に落ちないものを感じているようだったが、それでも湊のためにもう一度言う。

「だから、ゴールデンウイークに皆でどっか遊びに行かないかっていう話。坂井君の全快祝いも兼ねてね」
「……僕の?」
「いいじゃないか。どうせ予定はないんだろ?」
「まあ……そうだが」

 池が平井を後押しした。彼は付き合いの長さから、中学以来の友人が漫画やゲームで連休を潰す以外の予定を持っていないことを、半ば確信しているのだった。二人に誘いを受けながらも、湊の返事は歯切れが悪い。
 お互いの認識にずれがあるのはともかくとして、実際、予定は無い。今の湊に出来ることと言えば、眠りに落ちた後ベルベットルームの椅子に座っていることを期待する位なものだっただろう。
 予定が無いというよりは、連休のことなど今言われるまで頭の中に無かった。
しかし、彼女達には悪いとは思いつつ、適当に理由を付けて断ってしまおうか、と考える。
こんな状況だ。正直あまり気乗りがしなかった。すまないが、と湊は口を開きかけて、

「あ、あの……!」

 今まで黙っていた吉田が、おずおずと懸命に声を絞り出した。その様子を見て、湊は口を閉じた。

「私も、いい考えだと思います。せっかくのお休みなんですし、皆で遊ぶのも……。坂井君が来てくれたら、きっと楽しい、と思います……」

 この中では多少なりとも事情を理解している方の吉田も、先の二人を後押しする。
 彼女としては、今の坂井悠二が友人達と打ち解けるようになってほしいのだ。
記憶の方は自分が焦っても仕方無いのかもしれないが、覚えていないだけで彼には気の置けない友人達がたくさんいるということを、知っておいてほしかった。そのことはきっと、彼の支えになると考えていた。
 湊はそんな彼女の決して同情や哀れみではない心遣いを感じ、断りの言葉を飲み込んだ。こんな顔をされたら断れない。
 坂井悠二は友人に恵まれている。きっと周りに慕われる人物だったのだろう。

「決まりね。それじゃ、行き先はどうする?」

 湊の沈黙を了承と看做し、緒方がこの場にいる者達に問い掛けた。

「そうだな……。『ファンシーパーク』っていうのはどう? この前、新聞屋さんから団体割引券貰ったんだけど」

 その言葉を受け、池が答えた。

「『ファンパー』ねえ。俺行ったことないけど、どんな感じだ?」
「敷地は狭いけど、アトラクションは結構面白いのが揃ってるよ。県外からもお客が呼べる位だからね」
「ふうん」

 佐藤も行き先候補の一つとして一考の価値有りと判断したのか、箸を止めて考える素振りを見せた。
 『大戸ファンシーパーク』。数年前、御崎市に隣接する大戸市の山手、往還道沿いに開業したテーマーパークだ。
元々はしがない地方博覧会のバビリオンを移設した山上公園だった。
その簡単に取り潰せない上に維持費だけはやたらかかるこれらの施設を、なんとか有効活用としようと市当局から県までが知恵を絞った結果が、このレジャー施設化というわけだ。
花の常設展や土器の博物館といった地味なバビリオンにはあまり客は寄ってこないが、周囲のアトラクションは概ね好評。
県外からも客を呼べる、御崎市の貴重な財源の一つとなっている。

「一美はどう? 前に行ったことがあるって言ってたよね?」 

 平井が吉田に話を振った。

「そうなのか、吉田さん?」
「あ、はい。二度ほど両親や弟と。なかなか楽しいところでした」

 湊の質問に吉田が答えた。実際に来園した者の感想だ。説得力がある。
 この後も少しだけ話し合いは続いたが、結局反対意見は出なかった。行き先は満場一致で決定し、最後に池が、

「じゃ、詳しい日程はまた後日、ということで。決まったら連絡するよ」

 と話を纏めたところで、昼食会は解散になった。
 池の好きな言葉の一つに、「いい想い出はいい段取りから生まれる」というものがある。
近日中に、現地までの移動経路や、各アトラクションの位置、園内のトイレの位置まで調べ尽くした完璧な行動日程を組んでくれることだろう。
こういうマメさと話をまとめる上手さが、クラス委員(御崎高校では「委員長」ではなく「委員」という)を任せられる理由なのだった。
 四限目、五限目、帰りのホームルームが終わった。湊は鞄を畳みながら、この後の予定を考える。
 寄り道をせずに真っ直ぐに帰るのもいい。だが、適当に街を散策してみたい気もする。
少し考えて、湊は後者を選択した。坂井家に帰っても特にすることがない。そう決めると、湊は教室を出た。
 学校を出た。適当に歩いていると、いつしか商店街の方に足が向いていた。レンガ敷きの歩道を気の向くまま進む。
 街路樹の影に入った時、風に吹かれてきた桜の花弁が湊の制服の袖に付き、すぐにはらりと落ちた。
午後の日が暖かに春の街に降り注いでいた。柔らかな春風が、足下を撫でて通り過ぎていった。
 湊はふと、耳元に涼しさを感じた。そういえば、イヤホンをしていない。
 彼は音楽好きである。少し前までは常にMP3プレイヤーを携帯し、暇さえあればお気に入りの曲を聴いていたのだ。
 前方にDVD・CDショップの看板を発見した。次の信号を左。そこから歩いて二分ほど、とある。
湊はその店に行ってみることにした。

「きゃっ」

 歩道沿いに左に曲がろうとした時、誰かにぶつかった。建物の角が死角になって、角を曲がってくる誰かを視認出来なかったのだ。
 どさっ、という音と、ばさばさっ、という音がした。すみません、と謝って、ぶつかった人物の顔を見ると、

「平井さん?」
「さ、坂井君?」

 平井ゆかりが、驚いたような顔をして湊を見ていた。

「すまない、大丈夫か?」
「う、うん。大丈夫。大丈夫だから、拾わなくていいって! 自分でやるから!」

 さっきぶつかって鞄を落とした時、歩道に散らばった教科書やノートを拾い集め始めた湊を見て、平井は更に動揺を見せた。
 何だろう、と湊が疑問に思った時、彼の視界に歩道に落ちた四角い紙が入った。彼は何気なくそれを拾い上げた。
「あっ!」と平井が悲鳴染みた声を挙げた。

「池の写真?」

 湊が拾い上げたのは写真だった。写っているのは池速人。背景を見るに、学校の廊下で撮影されたものらしい。
 写真の中の彼は、声を掛けられて振り向いた瞬間を撮影されたのか、身構えてない自然な佇まいを見せていた。
 写真の持ち主へと視線を移せば、彼女は恥ずかしそうに顔をそむけていた。頬がうっすらと赤い。
湊はどちらかといえば鈍感な方だが、流石にここまで状況証拠が揃っていれば事情を察する。

「……だから駄目だって言ったのに」

 二人とも無言の内に歩道に散らばった鞄の中身を回収し終えた後で、平井が上目遣いで恨みがましく呟いた。

「いや、僕はそんなつもりは」
「なくても関係ないの。坂井君酷い。乙女の純情を踏みにじった。しかも言い訳するだなんて!」

 平井がわっと顔を両手で覆った。くっくっという感情を押し殺しているような小さな声が漏れ聞こえる。彼女の肩が小刻みに震えていた。
 道行く人が好奇心と非難が入り混じった視線で湊を見ていた。表情には出さないものの、彼はうろたえた。

「僕が悪かった。謝る。このことは誰にも言わないし、忘れるようにするから……」

 湊がそこまで言った時、平井が唐突に吹きだした。小さい気泡を唇から吐き出すような笑い。
 彼女が顔を覆っていた両手を除けた。彼女の目に涙など光っていない。

「ああ、おかしい。坂井君簡単に騙されるんだもん」
「からかったのか?」

 ようやくそのことに気付き、湊が憮然として平井に尋ねた。

「ま、ね。恥ずかしかったのは本当なんだから、これ位はやっちゃってもいいかなーって」
「勘弁してくれ。こういう冗談は苦手なんだ」
「だろうね。ごめんごめん。ちょっとやり過ぎた」

 平井が拝むように掌を合わせて謝罪した。続けて、はにかんだ顔で言う。

「ね、ちょっと付き合ってくれないかな?」」


 二人、並んで歩く。湊と平井が衝突した曲がり角を左に進み、二分ほど歩くとさっきの看板のCD・DVDショップが見えた。
 その前を通り過ぎ、飲食店の並ぶ地区に出る。

「でね、劇中の時間の経過が凄く細かく計算されてるの。シーンが変わる毎に劇中の時間と場所が表示されるじゃない? あれ、バスや電車が登場するエピソードじゃ、現実の時刻表に合わせて劇中の時間を調整してるんだって。だから描写と時間経過の整合性がばっちりで、リアルな感じが出てるんだけど、その分撮影が大変だったんだって。そりゃ分単位の調整が必要なんだもんね。スタッフの熱意には頭が下がるよ」

 少し付き合ってくれないか、と湊に誘いの言葉を掛けた後から、彼女はずっとこんな感じだった。
 今はテレビ雑誌を読んで知ったという、とあるドラマの撮影裏話を喋っているのだが、その前は最近デビューした子供歌手、通称「ちーこりん」が如何に前途有望な金の卵であるかについて、熱弁を振るっていた。
 喋る。喋る。湊が口を挟む暇が無い。平井ははきはきと喋る活発なタイプな少女ではあるが、幾らなんでもこれは不自然だった。
特に、ああいうことがあったばかりなのでは尚更だ。

「バイクアクションもカッコよかったよね。ウィリーで前輪パンチとか、ジャックナイフで後輪キックとか。あのシリーズ初のスペイン製バイクっていうのがまた……」
「……なあ、平井さん」

 平井は、落ち着くために関係の無いことを話している。
 さっき湊をからかったのも、結局のところ恥ずかしい気持ちを誤魔化すためにやったことだったのだ。
見た目ほど彼女に余裕がある訳ではない。誰だって話したり聞いたりするのに躊躇することはある。

「なに?」
「僕に話したいことがあるんじゃないのか?」
「んー……まあね」
「やはり池のことか?」

 些か不躾な湊の指摘に、平井の頬がまたぱっと赤くなった。
 必然の話題の転換とはいえ、照れるものは照れるのである。

「池君ってさ、何でも出来るくせに変なところで要領が悪いの。ブレーキ掛けてるっていうか、自分の気持ちに蓋をすることで場が丸く収まるなら、率先して貧乏くじ引いちゃうタイプ」

 池に対する意外に辛口の評価が、平井の口から出た。だが、そこに嘲りの響きは全く無い。
 その欠点さえも好ましく思えるという気持ちが、言外に滲み出ていた。

「今も、ちょっとそれで困ったことになってるわけだけど」

 ここで何故か意味有り気に湊を見る。「誰が」「何で」困っているのか、はっきりとは言わない。
 それは平井が彼女の幼馴染と同じ気持ちを抱えているからこそわかったことであり、今ここで話すことは躊躇われる類の問題だった。 
当然の如く、湊はそんな繊細な部分にまで気が回らない。

「困ったこととは?」
「あー、こっちはいいや。私が勝手に話すのは悪いかなって気がするし」

 平井は笑って、ひらひらと手を振る。湊はわけがわからずきょとんとした。彼女はそれに構わず、話を元に戻す。

「……本当のところ、私にも理由はわかんないんだ。けど、誰かが困ってるといつもさり気なく助けてて、妙な遠慮で損をして、いつも自分のこと後回しにしちゃう池君のことが『いいな』って思っちゃったわけですよ」

 平井の口調は軽いものだったが、自分の中にあるものを確かめるようにゆっくりと紡いだ言葉達に込められた想い。
 それは真剣なものだった。それがわからない者は愚か者である。
湊は口を挟まず、彼女の話を聞いていた。

「ねえ、池君って彼女とかいるのかな?」

 期待と不安が半々の質問を投げ掛けられ、湊はそれに明確な答えを返せない自分を歯痒く思った。
 何しろ彼は池とは今日出会ったばかりなのだ。池に恋人がいるかどうかなど、わかる筈がない。

「どうだろうな。聞いたことがないからわからない」
「……そっか」

 平井ははっきりしない返答に少し残念そうな顔をしたが、それ以上何も言わなかった。
 湊は心の中で「上手くいくといいな」と彼女に応援の言葉を送った。




「それじゃ、僕はこっちだから」
「うん、じゃあね!」

 くるり、と彼女が身を翻して去っていく。湊はその姿を見送った。
 いつの間にか陽が随分と傾いてきている。夕陽を反射してレンガ敷きの歩道がオレンジ色に光っていた。
手を繋いで歩く一組の親子が湊の側を通り過ぎていった。夕食がカレーであることを息子が喜んでいた。
 そろそろ帰ろう。そう思い、湊は坂井家に向かって歩き出した。平井とは反対の方向だ。
 そのまましばらく歩いた時、ジジジ、という音が耳に入った。音のした方に顔を向けると、クラブや居酒屋の看板が何枚か点滅してるのが見えた。故障だろうか? まあ、どうでもいいことだ。音に対する興味を失うと、湊は顔を正面へと戻した。
 湊が奇妙な気配を感じたのはその時だった。
 首の後ろがチリチリと焦げ付くような感覚。ほんの数ヶ月前まで日常的に感じていた、人間でないものが放つ「捕食者」の気配。
風すらも生物の吐く吐息のような不快な生温かさを持ち始めたような気さえした。
 何かが来る。シャドウとは違うが、人間に害を為す何かが。
 落日の大気が、引きしぼめられた弓の弦のように張り詰めていく。道行く人の足音が、やけにはっきりと聞こえた。

 ――何だ?

 ぐらり、と地面が傾いたような感覚。一瞬、魂と身体がずれてしまったかのような錯覚が湊を襲った。
 それが何かを判断する前に。



 有里湊の非日常は、燃え上がった。



あとがき

 久し振りの"memento vivere"。次回はいよいよシャナが登場します。
 どうでもいいですが、平井さんの語りの元ネタがわかる人はいるのでしょうか?



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