長髪を美しく保つために一番いいことは何か? それは「何もしないこと」である。
カラーリングは髪を傷めるし、シャギーやレイヤーは枝毛や切れ毛を大量に発生させる。力任せのブラッシングなどキューティクルを傷めるだけだ。
魚料理で例えるならば、茶色や金色に染めてシャギーだのレイヤーだのを入れるのはスパイスたっぷりの香草焼きの魅力。
しかし、長髪の魅力とはお刺身なのだ。素材そのものが命であるが故に、決して誤魔化しが利かない。余計な手を入れる必要も無ければ、そんな余裕も無い。
長髪の美しさとはそういったストイックなところにこそ存在するのである。
 ……と、ここまでが全部この前御園の床屋に言った時に店内で読んだ雑誌の受け売りである。
店が混んでて待っている間暇だったからつい読み耽ってしまったのだが、本当かどうかは知らん。
例えも何だかよくわからんし(む、何だかつい最近も同じことを言ったような気がするな。これがデジャヴというやつだろうか?)。
それに、髪を美しく保つために本当に「何もしない」わけではあるまい。あの本にもそれなりの手入れ方法は書いてあったのだし。
要するに、何事も必要な箇所に必要なだけの手間を掛けてやればいいと、つまりはそういうことなのだろう。
 では、ハル姉もそうなのだろうか。あまり熱心に髪の手入れをしているところを見たことが無いけれど、あれは考えがあってのことだったのだろうか。
春の日差しも麗らかな家の縁側にて。櫛に引っ掛かった絡み合った髪の毛を丁寧にほどいてやりながら、俺はそんなことを考えていた。……よし、ほどけた。
 指の谷間を流れていく髪の毛は羽のように軽やかで、高級な絹糸のようにさらさらだ。後ろ毛は一本一本輝きを放ち、吹き込んで来た風を受けてふわぁっと揺れる。
耳の影に広がった髪の先、小さなほつれを見つけて俺はそっと指を伸ばした。

「んっ」

 ハル姉がくすぐったそうに身を捩る。そのか細い声と、黒い清流の隙間から見え隠れする綿雪のように白いうなじ。髪からは少し焦げたようなお日様の匂いがした。

「こ、こら。変な声出すなっ」
「ご、ごめん。ちょっとくすぐったくって。でも、もう大丈夫だから」

 だったら顔赤くしてチラチラこっち見んな。こっちまで恥ずかしくなってくるだろうが。いや、今の状況そのものが小っ恥ずかしいものではあるけれども。

「……じっとしてろよ。手元が狂うから」

 顔が熱くなってきたのを気の所為と決め付けて、俺は櫛を目の細かいものに持ち替えた。
 全く、今日は忙しい日だ。火事を消し止めたりハル姉を説教したり、こうして髪を整えてやったり。
ハル姉と一緒にいる限り一生退屈だけはしないで済むんじゃないだろうか。そんな下らないことを考えた。   





 居間のテーブルを間に挟む形でハル姉と向かい合って座る。位置としては俺が部屋奥の三人掛けのソファ、ハル姉が部屋入口付近にある一人用のソファだ。
ハル姉はそのそれなりに大きな身体を縮こまらせ、涙目で俯いている。目元は真っ赤だ。
頬には幾筋もの涙の跡がある。
いつも能天気なハル姉のそんな姿を見ていると、つい怒りが憐憫に取って代わられそうになる。
しかし、今回ばかりはそれに流される訳にはいかないのだ。

「ハル姉」
「……」
「いくらハル姉でも、やっていいことと悪いことの区別くらいは付くと思ってたんだけどな。それを何だよ、こんな馬鹿なことをして」
「……」
「俺言ったよな? 俺の部屋に勝手に入るなって。俺の物に触るなって。それだけならまだしも、もうちょっとで大火事になるところだったんだぞ!」

 ありのままに今日起こったことを話そう。「ちょっと外出していたらハル姉のせいで家が火事になりかけていた」。俺の部屋にあった思春期の男子高校生御用達の本をハル姉が無断で持ち出し、それを庭で焼却処分(しかも灯油をぶっかけていやがった)しようとしたのが原因である。
いや、何を言ってるんだかわからないと思うが、俺も何が起こっているのかわからなかった。
頭がどうにかなりそうだった。うちの姉のばあいだとかはじめてのおるすばんだとかそんなチャチなもんじゃあ断じてない、もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ。
ジョゼフ・マクモニーグルだってこんな奇天烈な事態の発生を予見することなど不可能だったに違いない。我が愚姉の行動は常に人の予想の斜め上を行くのだ。
 今にして思えば、昨日の夜ハル姉に外出の予定を告げた時「そう。じゃあ、明日はお姉ちゃん一人でおるすばんだねっ」と妙に嬉しそうにしていたことをもっと不審に思うべきだった。
「おるすばん」という言葉の響きに感じた胸のざわめきはいわゆる虫の知らせというヤツだったのだ。
それを信じていればよかった、と今更ながらに思う。
 だが、後悔先に立たず。このアホの所為で我が家の物置は真っ黒焦げだ。不幸中の幸いで、火が家に燃え移る前に消し止めることが出来たからまだよかったようなものの、一歩間違えば数百年の歴史を誇る詩乃塚神社が大炎上するところだった。それに何より、

「一生跡が残るような大火傷でもしたらどうするつもりだこの馬鹿!」
 
 どん、と拳でテーブルを叩く。ハル姉がひっ、と身を竦ませた。ちょっと一人で外出した結果がこれだよ。馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、ここまで馬鹿だとは思ってもみなかった。
ハル姉にはきっちりと反省して貰う必要がある。
 俺は別にハル姉が憎くて怒ってるわけじゃない。自分が以下に軽率なことをしたか、俺がどれだけ心配したか、それをわかってもらいたいだけだ。
俺の歯ブラシを勝手に使ったとか、下着をいかがわしい目的で使おうとしていたとか、南京錠を掛けてまで封鎖していた自室の襖を蹴破ったとか、ワイシャツをパクったとか、布団にべっとりよだれを付けたとか、そういうことを怒ってるわけじゃない。自分でも相当毒されているとは思うが、それだけだったらこんなに怒ってない。それぐらいいつものことだ。
それだけだったらゲンコツ一発位で勘弁してやっただろう。しかし、今回は事が事である。
さっきもいったが大火傷、いや、最悪焼け死んでいた可能性だってあるんだ。
幾ら何でも羽目を外し過ぎだ。くどいようだが、反省は絶対に必要なのである。  

「ううっ、ぐずっ、ひっく……ご、ごめんなさい。あーくん、本当にごめんなさい……!」

  ……とはいえ、「もう十分じゃないか。許してやれよ」という心の声に逆らい続けるのは結構キツいものがあった。大粒の涙をぼろぼろと流し、肩を震わせ続けるハル姉を見ていると胸が痛む。
自分が間違ったことを言っているとは思わない。思わないが……下唇を噛み、嗚咽が漏れるのを必死でこらえながら謝罪の言葉を口にし続けるハル姉を見ていると、理屈に合わない罪悪感が込み上げて来る。気まずくなって、俺は視線を彷徨わせた。
 ハル姉の髪の惨状に気付いたのはその時だった。
熱風と火の粉に焙られたせいで、見るも無残に乱れ切っている。額に掛かる髪の毛の一部が少し焦げている。普段の艶やかさを知るだけに、見ていて痛々しい有様だった。
俺の視線に気が付いたのか、ハル姉がその白い指先を額へと伸ばした。
前髪を摘んで、そしてすぐにそっと目を伏せる。酷く打ちのめされたような表情だった。
すんすんと鼻を鳴らす音が静かな部屋に響いた。
 ああ、もう。仕方ねえな。
 俺はテーブルの上のティッシュボックスをハル姉の方に押しやった。はっと顔を上げるハル姉。
俺はがしがしと頭を掻き、ソファから立ち上がった。

「あ、あーくん?」

 そのまま居間を出て行こうとする俺の背中に、戸惑うようなハル姉の声が掛けられる。
俺は首だけ振り向いて答えた。

「……ちょっと待ってろ。櫛とハサミ取って来るから」
「え?」
「髪の毛焦げたところは切らなきゃしょうがないだろ。切ってやるよ」

 説教はこの辺で勘弁しといてやろう。ハル姉も十分反省しただろうし、実際に痛い目にも遭ったんだから。そんな、半分は自分に対する言い訳めいたことを考えながら俺は居間を後にした。











 手櫛を通し、目の粗い櫛で梳いてやったことで髪のほつれは十分取れている。
後はこの目の細かい櫛で頭の上から梳いてやればおしまいだ。
やれやれ。暇潰しで読んでいた本の内容がこんな場面で役に立つとは思わなかった。『Viva 黒髪』、なかなかに侮れん。
 上から下へ。櫛は滑らかに黒い清流を掻き分けていく。その仕上げの作業が七割程終わった時だっただろうか。ハル姉がおずおずと言った感じで口を開いた。

「あーくん、まだ怒ってる?」
「いや」

 軽く首を横に振って答える。ハル姉が馬鹿なことを仕出かしたのは確かだ。
でも、それはハル姉も自分でわかっているだろう。
これ以上責め立てるのは俺の精神衛生上大変よろしくないし、第一本人が反省しているのにそんなことをしても意味が無い。家族として言わなければならないことは言ってやったと思う。

「……でも、今回は流石にやり過ぎたな。洒落にならん事態になるところだった」
「はい、ごめんなさい……」
「もうこんなことしないか?」
「はい、二度としません……」
「なら、もういいよ。約束してくれるんならさ」

 俺はそこまで言ってため息を吐き、軽くこめかみを押さえた。

「あの、あーくん、大丈夫? もしかしてさっきどこか火傷したとか……」

 俺のため息を聞いてハル姉が振り向き、心配そうに俺の顔を覗き込んできた。

「いや、そういうわけじゃなくてな。慣れないんだよ、こういうのは」
「え?」
「俺に迷惑が掛かる分にはまだいいよ。もうとっくに慣れたし。……でもな、ハル姉が怪我したり危ない目に合ったり、そういうのは駄目なんだよ。何度経験しても慣れないし、慣れたくもない。言っとくがな、あの無駄に長い石段を上って家に辿り着くまでの間生きた心地がしなかったんだぞ俺は」

 誰か俺の気持ちを想像出来るだろうか? 
長い石段を下り終えて駅に向かっていたところ、突然愚姉からのSOSコールが入り、半信半疑で家の方を仰ぎ見たら、家のある場所から真っ黒い煙がもくもくと立ち昇っていたのだ。
血の気が引くとはまさにあのことだ。
 ハル姉に何かあったらと思うと心臓が鷲掴みにされるみたいだった。
あのトロくさいハル姉が火事場に放り出されて無事でいられるのか。
せめて避難していてくれ。危ないことはしないでくれ。
そんな考えが頭の中をぐるぐる回って、猛烈な不安が喉を圧迫して、急激な運動をしたことによる酸欠と相まって吐きそうだった。
……で、息を切らせて駆け付けてみれば、燃え上がる物置を前に半泣きでオロオロしているハル姉がいたわけだが。
しかも辺りには灯油の匂いがぷんぷんしており、庭先では俺の秘蔵コレクションが盛大な勢いで燃え上がっていたわけだが。
この辺り、俺の気持ちを察してほしいところである。

「あ……」

 ハル姉が目をぱちくりさせている。なんだよ、意外そうな顔しやがって。俺が心配したのがそんなにおかしいか?
そういう反応をされるとちょっとむっとするぞ。そりゃ散々怒鳴り散らしたけどさ。

「あーくん、ありがと……。……ごめんなさい」

 今俺が櫛を通している髪の毛みたいに。ハル姉の唇の端がふわりと浮いた。
いつも向日葵みたいに能天気に笑っているのとは違う、桜の花弁がそよ風に揺らいだような、そんな控え目な微笑み。
 それを見たら何だか随分と身体が軽くなったような気がした。鳴いた烏が何とやら、といった言葉が思い浮かんだが口にするのは止めておいた。
結局のところ、俺がハル姉に怒りを持続させるというのはなかなかに難事らしい。
特にこんな天気のいい春の日は。

「えへへ……。そっか。お姉ちゃん、心配してもらってたんだね」
「こら、笑うトコじゃないぞ。さっきも言ったけど、洒落にならん事態になるとこだったんだから」
「うん。そうだね、あーくん」
「はぁ、まったく……」

 反省の色こそ伺えるものの、いつもの調子を取り戻しつつあるハル姉の姿に安心している自分がいる。
そのことが悔しいやら恥ずかしいやらで、俺はまたがしがしと頭を掻くしかなかった。





 野の花の匂いに明け暮れる詩乃塚村。
 その一角にある神社にて。
 おかしな姉弟達の小っ恥ずかしいやり取りはまだ少し続きそうだった。

















「……残された問題はこの惨状を親父達にどう説明するかだよな」
「うっ……」



 あとがき

 ドラマCD後日談、という感じです。秋人はあの後小春を本気で叱り付けたと思います。
相手の為に本気で怒れることって、家族・友人・恋人・夫婦等問わずに大切なことですよね。



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