身体と外界との境界線が溶けだしてしまいそうな深い闇の中、ただ彼女の姿だけが白く浮かび上がって見える。

『アキト。いきなりでなんだが、キミに一つ質問があるんだ』

 これは夢だ、と夢を見ながら思う。だって、この狂おしいほどに愛おしかった人はもういないんだから。

『小説のタイトルだ。こう、喉まで出かかっているんだがダメなんだ。どうしても思い出せない。いや、今はインターネットっていう便利なモノがあることだし、調べようと思えば調べられるんだが……。それも何だか癪でな。思い出せないのも嫌だが、あっさり答えを貰っても嫌だという、これはちょっとしたジレンマだよ。奥歯に髪の毛が一筋挟まっているような気分だ。そこで、だ。もしアキトが知っているのなら教えてもらうのもありじゃないかと思ったわけなのだよ」

 出来うることなら夢の中でも彼女に駆け寄りたかった。そして、謝りたかった。
子供の頃からずっと一緒だったくせに、俺はアヤ姉のことを何も知らなかったんだ。アヤ姉が追い詰められていたことに気付けなかったんだ。
 俺は馬鹿だ。世界一の大馬鹿野郎だ。あの日、俺がほんのちょっとだけ勇気を出していればあんなことにはならなかったのに。アヤ姉は今でも俺達の傍にいてくれた筈だったのに。
腸が千切れるほどの後悔はしかし、何の役にも立たない。彼女はもう戻っては来ない。

『あらすじはこうだ。ある幼い兄妹が無人島に漂着する。持っている物といえば一本の鉛筆と、ナイフと、一冊のノートと、一個の虫眼鏡と、水を入れた三本のビール瓶と、小さな新約聖書が一冊と大した物は無い。出始めからなかなかにハードな状況だな。……え? そこまで詳しく覚えているんなら題名くらい思い出せるだろうって? いやいや、だから困っているのだよ。人間の記憶力というのは曖昧かつ不完全なモノだからね。実はこの間も……。いや、すまない。話が逸れてしまったな。それで、その島というのが実に過ごしやすい所でね。気候は年中夏のように暖か、二人を脅かす害虫や獣の類はおらず、食べ物も鳥や魚や果実や野草など豊富にあって食うには困らない。二人はその楽園のような島で何年も楽しく暮らすんだ』

 アヤ姉、アヤ姉! 喉も裂けよとばかりに叫んだ筈の言葉は声にならない。幾ら手を伸ばしても彼女に触れられない。瞼が熱くなる。悔恨という人喰い虫に全身を喰われていくような感覚。

『ところが、そんな二人の幸せな生活に次第に暗雲が立ち込め始める。兄は妹を、妹は兄を、性愛の対象として見始めてしまうんだ。悩める兄妹はそれまでのように無邪気に笑い合うことも言葉を交わすことさえ出来なくなり、暗欝な気分で日々を過ごす。倫理と性愛の狭間で葛藤していた二人は、とうとう肉の誘惑に負けて関係を持ってしまう。やがて、待ち望んでいた筈の救いの船が来た時、二人は禁忌を犯した罪の重さに耐えかねて崖から身を投じる、という今にして思えば随分と救いの無い話なんだが……。キミは知らないか? え、知ってる?……ああ、そうだ! そうそう、そんなタイトルだった! いやあ、キミに聞いて良かったよ。実にすっきりしたね。今夜はよく眠れそうだよ、ありがとう』

 届けたかった想いがあった。伝えたい言葉がいっぱいあった。過去形でしか表せないそれらが、その重さが、つまりは俺の罪だった。

『……ついでと言っては何だが、もう一つ質問いいかな? キミの意見を聞いてみたいんだ』

 目覚めが近い。意識が上の方に引っ張られていくのを感じる。

『――……だ?』

 アヤ姉の問いは、途切れて聞き取れなかった。






 女の肌の匂いと共に、ゆっくりと目が覚めた。白い天井が見える。雨の音が聞こえる。夏の晩のむっとした空気が二人分の体臭と混じり合って身体にべっとりと纏わり付く。
寝返りを打とうとして、左手の親指から手首にかけて軽い痺れを感じた。
左隣りに目をやれば、そこには血を分けた実の姉であり恋人である女性が俺の腕を枕に安らかな寝息を立てている。そうか。一日中愛し合った後、そのまま寝てしまったんだっけ。
 ぶれる視界にピントを合わせ、改めてハル姉の顔に視線を合わせる。
形の良い眉。すっきりした小鼻。清楚な花の蕾のような唇。布団の端から覗く、どこまでも滑らかで白い肩。烏の濡れ羽色をした綺麗な黒髪。
 無意識に伸びた指先が彼女の頬に触れれば、その感触に陶然となる。むずがるその姿にさえ愛おしさが込み上げる。学校の男連中が参っていたのも無理は無い。
かつて俺の数少ない友人の一人が何気無く口にしたハル姉の評判にも頷けるというものだ。
そういえばお祭りの準備をしている時なんか……。

 ……ああ、まただ。  

 懐かしい日々と懐かしい人達の顔を思い浮かべてしまった瞬間、つい先ほどまで感じていた幸福感が消え失せ、代わりに眼の前に夜の闇とは違う帳が降りて来るのを感じた。
痙攣の前兆のような胸苦しさが喉の奥から込み上げてくる。汗と精液と愛液が染みついたベッドのシーツを引き裂いてやりたくなる。壁に掛かっているセーラー服を破いて、机の上のパソコンを窓から投げ捨て、化粧台に乗っかったフォトフレームを叩き割って踏み付けてやりたくなる。
嵐のように身の内を吹き荒れる暴力的な衝動。俺は歯を食いしばって必死にそれに耐えた。
 それは、何もかもを引き換えにしてようやく掴んだ二人切りの幸せに忍び込んだ恐ろしい悪魔だった。アヤ姉が、姫歌が、たくさんの人々が死に、狂気に支配され変わり果ててしまった街を捨て、このアパートの一室でハル姉と共に生きることを決めた時に打ち捨てた筈のものだった。
 例えば、行為の後ハル姉の髪を指先で梳いている時。例えば、夜中に目が覚めた時。俺はふと゛我に返る゛瞬間がある。その瞬間、この密室の楽園はこの世の地獄へと様変わりするのだ。
俺がハル姉にここに連れられて来た時のように。
 正気と狂気の境目が何処にあるのかなんてわからない。ただ、この世のあらゆる場所にはそこで幸せに生きるためのルールがあるということはわかっていた。
それに従っているからこそ、俺は、俺達は「幸せ」でいられるんだから。
 この密室で「幸せ」でいるためのルールは一つだ。人間を止めてしまえばいい。
だが、俺の中に残った人間の部分は思いの外強靭だった。
腹の中に置き忘れたメスのようなそれは、こうして何の前触れも無く牙を向いては内側から俺を喰い破ろうとするのだ。
 皮肉な話だ。ハル姉と一緒に墜ちることを決意する前には守り通そうとしていたもの。両手両足を拘束され、昼夜を問わず犯され続け、何十何百回と精を絞り続けられても必死にしがみ付いていた理性、道徳、倫理、常識が今や俺を苛む宿痾となっているのだから。


『当たり前の話だが、人間は死ぬまでは生きていかなければならない。その過程で何が起こり、人生の分かれ道でどのような選択をしようと、思い煩うその後というものがあるわけだ』


 魂に形があるとしたら、俺達のそれは酷く歪でボロボロの代物であるに違いない。
狂気とはそれを覆う琺瑯だ。悲しくて辛い現実に向き合わずに済むように、未来も救いも無い状況に魂が擦り切れてしまわないようにするための。
 だから、それが剥がれた時。琺瑯の剥がれ目が現実の端にでも触れてしまった時。俺はまるで世界の全てが俺を圧殺しようとしているのではないかという狂った考えに憑り付かれるのだ。


『初めて契りを交わした後で、兄妹は一体何を思ったんだ? 二人だけの島でその後どうやって過ごしていたんだ? 夫婦として仲睦まじく暮らしたのか。それとも一度限りの過ちとして兄妹に戻ろうと努めたのか』


 親父や母さんのことを思う。姫歌のことを思う。誠二や、黒咲さんや、仲良くなりかけていたクラスメイト達のことを思う。そして、自らの命を絶ったアヤ姉のことを思う。
皆と過ごした日々が、切ないほどに恋しくてたまらなくなる。両親の愛情に泥を引っ掛け、家族同然であった少女を弔うこともせず、消息を絶った友人を探すこともなく、世界の何処とも繋がっていないこの密室でただひたすらに実の姉の身体に溺れている自分がこの上もなく浅ましく醜い生き物に思えてくるのだ。
 
 ――そう、それはまるで『瓶詰めの地獄』。



『――なあ、アキト。君はどう思う? 救いの船が来るまでの間、二人は一体何を考えていたんだ?』



 いつかのアヤ姉の質問を思い出す。あの時は上手く答えられなかったけど、今ならわかるよアヤ姉。あの話に出て来る兄妹はきっと今の俺達のような気持ちを抱えていたんだ。
愛していた。大切だった。この世でたった一つの尊い絆を、自分達の手で歪なものに変えてしまったことが堪らなく悲しかったんだろう。自分達を愛してくれた人達全てに、心が千々に裂けそうな程の申し訳無さを感じていたんだろう。 
 汗ばんだ額に手をやれば、骨のように硬い角の感触がある。……これを砕けば楽になれる。不死の力を与える鬼の角に当てた掌から、毒蜜のような誘惑がじんわりと伝わって来た。
簡単なことだ。金槌か何かで思いっ切り叩いてやればいい。それで俺はこの責め苦から解放される。
アヤ姉を救えず、姫歌を救えず、ハル姉を自己の存在を消そうとするまでに追い詰めてしまった罰を受けることが出来る。ただ、この角を砕きさえすれば……。

「……泣いてるの? あーくん」

 何時から起きていたのか。ハル姉が俺の顔を覗き込んでいた。

「泣いてなんか……」 

 そう言った途端に頬を伝うものを感じ、俺は眦に指を当てた。涙だ。慌てて手の甲で拭うが、涙が止まらない。
 ああ、死ねない。俺は死ねないんだ。俺が死んだらハル姉はきっとその後を追う。わかりきったことじゃないか。何を馬鹿なことを考えていたんだろう。今更自分だけが楽になろうだなんて。
 違うんだ。俺は泣いてなんかいない。ハル姉とこうなったことを後悔なんてしていない。
そう伝えたかったけれど、嗚咽が込み上げてきて言葉にならない。きつくつぶった瞼の間から、涙がはらはらと流れ落ち続ける。そんな自分が情けなくてまた泣けて来た。
 子供のように泣きじゃくる俺の瞼を、ハル姉の舌がぺろりと舐めた。驚いて目を開ければ、ハル姉の紫がかった瞳が俺をじっと見つめている。慈しむように。悲しむように。
 俺が何か言うより早く、ハル姉の唇が俺の唇を塞いだ。ハル姉の唇が柔らかい。ハル姉の舌がお互いの唾液を交換しようと口腔内を扇情的に蠢く。
 上顎をなぞられる。歯の一本一本を舐められ、蹂躙される。びくん、と身体が小さく跳ねる。
数えきれない程肌を重ね続けることによってのみ悟ることが出来る性感のポイントを的確に刺激され、脳髄が痺れそうな快楽を感じた。

「っはあ、あ……」

 艶然とした吐息と共に、ハル姉が唇を解放した。互いに何も言わない。何も語らない。ただ、呼吸を整える音だけが二重に響いていた。
 ハル姉が枕元を探っている。やがて、その手がスチームシルバーの眼鏡ケースを取り出した。アヤ姉の使っていたものだ。カパっ、という音と共にケースが開く。その中から眼鏡を取り出したハル姉は実に自然な動作でそれを掛けた。

「アキト、しよう……?」

 花の精のように眩しく、淫魔のように悩ましく、『アヤ姉』が微笑んだ。
 ……ああ、そうだったよな、アヤ姉。ハル姉の中にはアヤ姉がいる。二人が交わり続ける限り、二人の愛して止まない宮部綾子はここに存在し続けるんだ。
 これから先、俺は自分が失ったものを思って嘆くことがあるだろう。不死である俺達の人生のどこからどこからまでを一生とするかはさておいて、おそらくは一生の内に数えきれないほど。
だが、それが何だ。何も怖いことは無い。俺には二人の姉が付いているんだから。
 左腕でしっかりと姉の身体を抱き締めながら、右腕でたわわに実った蜜球を揉みしだく。片耳を口に含んで舌で転がせば姉の身体が弓のようにしなり、口からは驚くほど艶を含んだ声が漏れた。
 墜ちていく。蕩けていく。至近距離で合わせた瞳の中、情欲を糧に燃え上がる篝火のような光を見たのを最後に、俺の意識は白く飛んだ。



「アキ、ト……あー、くん……もっとっ……!」

















 ――こうして俺達は今日もまた幸せに生きていく。
清らかな風にも、水にも、豊穣な食物にも、美しく楽しい花や鳥にも護られず。
肉体を汚し、神様の禁責を恐れず、狂った楽園の中で愛し合いながら。



 あとがき

タイトルは夢野久作の小説から。小春ENDは衝撃的でした。あれはあれで一つの美しい形なのかもしれませんが、一つくらい小春が普通に幸せになるENDがほしかったです。



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