なんとなく目が冴えて眠れなかった俺は、自室の座イスに背を持たれかけさせながら「誰かが憂鬱になるシリーズ」の第一巻を読んでいた。
公式サイトによると近い内に最新刊が発売されるらしいので、その復習といったところである。
何しろ延期に次ぐ延期でかれこれ二年間は新刊が出ていないのだ。たまには読み直さないと全体はともかく細部を忘れてしまう。ファンとしては前巻までに張られた伏線を意識しながら新刊を楽しみたい。
 キリのいいところまで読んでふと時計を見ると、もう十一時を回っていた。
明日からは俺も中学三年生。中学最後の一年が始まるのだ。その最初の日から寝坊して遅刻というのは少々情けない。そろそろ寝るか。そう思って本を閉じ、腰を浮かせかけた時だった。

「……あーくん、起きてる?」

 襖の向こうからハル姉の声。怪訝に思いつつも、俺は「何だよ、こんな時間に」と返事をした。
襖がすっと開いた。廊下に立っているのはパジャマ姿のハル姉だ。その手には枕を持っている。
ハル姉の紫がかった瞳がじっと俺を見つめる。部屋にはまだ入って来ようとしない。
暫しの沈黙。ハル姉の目が落ち着きなく揺れ動く。すぅ、とハル姉が息を呑む気配が伝わってきた。
枕を両手で抱え、顔を埋める。潤んだ瞳で俺を見上げ、こう言った。

「ねえ、あーくん……。一緒に寝ちゃダメ?」



 俺は無言で襖を閉め、

「ええっ!? 無言の門前払い!?」

 閉めようとしたところを、セールスマンよろしく足を突っ込んできたハル姉に阻止された。
こういう時だけは素早い。この俊敏さを何処か他のところで発揮してくれないものだろうか。

「ちょっとあーくん! 酷いじゃない! 話くらい聞いてくれたっていいでしょ!?」
「……ハル姉、明日から高校生だろ? 弟と寝たがるような歳じゃないだろもう」
「そう! 問題はズバリそこなのよあーくん!」

 ずびしっ! と、ハル姉が右の人差し指を俺に突き付けた。いちいち騒がしい姉である。
どうでもいいが、この間抜けな態勢のまま廊下で立ち話というのもアレである。俺はハル姉を促して部屋の中に招き入れた。きっと碌でも無いことだという嫌な予感がひしひしとしていたが。
 俺は座イス。ハル姉は布団の上。それぞれの場所に陣取った。

「あーくんもご存知の通り、お姉ちゃんは明日から高校生です」

 きっちりと正座して。ハル姉が右の人差し指をぴんと真っ直ぐ伸ばして言った。

「一時はどうなることかと思ったけどな。試験がマークシート方式で本当良かったよ」

 ハル姉の学力ははっきり言って低い。そして、受験生にはあり得ないほど向学心も無かった。
周りが定期テストの結果に一喜一憂し、成績表を恐怖の気持ちで受け取り、塾だの予備校だのに通って汗水垂らしている時にもこの愚姉と来たら……。
毎日毎日ダラダラと生活し続け、挙句の果て「あ、そうだ。中学留年してあーくんと同学年になるのもいいかも〜」などと恐ろしいことを言い出す始末。担任、俺、両親、揃って冷や冷やしていたものだ。
それでもハル姉はその身に宿った類稀なる強運(選択問題の正答率百パーセント)により、どうにか受験に合格。俺達一同はほっと胸を撫で下ろした。俺としてはこれを機にハル姉が少しは落ち着いてくれたらいいんだけど、なんて儚い望みを抱いていたりもする。

「うん。……でもね、ここに一つ重大な問題が発生してしまったのよ、あーくん」

 ずずいっと身を乗り出し、ハル姉が真剣な表情で言った。

「勉強に付いていける自信がないとか?」
「そんなもの初めからありません」
「学校まで迷子にならずに行けるか不安だとか?」
「あやちゃんと一緒に行くから大丈夫だもん」
「じゃあ、何だよ?」
「決まってるじゃない! あーくんがいないのよ!」

 どれも胸を張って言い切るようなことじゃない。特に最後。しかし、ハル姉にとっては重大事のようだった。

「お姉ちゃんはあーくんのこと信じてるよ? あーくんがその辺の下らない女になびく筈無いって。でも、あーくんを狙うケダモノのような女生徒達が大挙してやって来たら力尽くで無理矢理、なんてこともありえるじゃない」
「いや、まずその仮定がありえねーよ」
「そしてそんな時、私はメギツネ達の毒牙からあーくんを守ってあげられない。二人の間を隔てる距離がそれを不可能にしてしまうんだわ!」
「人の話聞けよ」

 ハル姉が頭を抱え、イヤイヤをするように首を振る。

「ああ! 運命ってなんて残酷なの! 私とあーくんが一年間も離れ離れだなんて! かつてこれ程までに恐ろしい試練が私とあーくんの間に立ち塞がったことがあったかしら!?」

 かと思えば、今度は両掌を天に掲げての悲しみのポーズ。異世界召喚使い魔ライフを描いたライトノベルに出てくる世間知らずの王女様並みのオーバーリアクションだ。
 ほら見ろ。やっぱり碌でも無いことだった。何処の世界にこんな下らないことで弟の部屋に押し掛ける姉がいるんだ?
 人の夢と書いて儚い。ハル姉に落ち着きを持ってほしいという俺の望みは早くもブチブチと断ち切られ始めた。もうちょっと持ってくれたってよかったんじゃないかと思う。
 親父と母さんが留守にしててよかった。もしそうじゃなかったら親父達がこの騒ぎを聞き付け、俺はこのバカ姉ともども説教される羽目になっていたかもしれない。
 神社の神主である親父とその妻である母さんは、どういうわけだか家を留守にしがちである。
この前帰って来たのはちょうど一週間前のことだった。その時は母さんがハル姉に見合いの話を持ってきたことでちょっとした騒ぎになったのだ。
中学を卒業したばかりだというのに随分と気の早いことだ、とその時は思ったのだが、なるほど動くのは早いに越したことはないのかもしれない。 いつまでたっても俺にべったりで他の男に全く興味を示さないハル姉。幾らあの呑気な両親であっても危機感が湧こうというものだ。
下手すれば詩乃塚神社の歴史は俺達の代で終わりかも、と。

「離れ離れって……。学校に行ってる間会えなくなるだけだろ。卒業する前だって授業中まで一緒だったってわけじゃないし」
「同じ学校にいるのといないとのじゃ、私周辺のあーくん濃度が全然違うのよ! あーくんのいない学校生活なんて、トマトとお肉抜きのミートスパゲティよ! ハンバーグの入ってないハンバーガーよ! ルーのないカレーなのよ!」

 何だよあーくん濃度って。毒ガスとか放射能みたいに言うな。例えも何だかよくわからんし。
ハル姉の言動が意味不明なことなど日常茶飯事ではあるが、今夜は特に酷い。

「……で? それとさっきのお願いと何の関係があるんだ?」
「あーくんの成分を補給させて! お家に帰るまであーくんのいない場所でも頑張れるように!」

 呆れて聞き返す俺に、ハル姉が間髪入れず意味不明な答えを返した。これで当の本人は大真面目なのだから始末が悪い。頭が痛くなってきた。
そして、こうなったハル姉が梃子でも動かないということを経験から悟れてしまう自分にも嫌になる。
日本人が敵わないもののリスト、「泣く子」と「地頭」の後に「ハル姉」を追加したい気分だ。

「あのな、ハル姉。日本には男女七つにして席を同じゅうせずっていう言葉が」
「あーくんと一緒に寝る」
「いや、だから人の話を」
「あーくんと一緒に寝る!」
「ハル姉、いい加減にしないと――――!」
「い〜や〜! あーくんと一緒に寝〜る〜の〜!」

 ごろん。じたばた。どたばた。布団の上に寝っ転がり、じたばたと手足をばたつかせる愚姉。
まるで三歳児だった。
 大きなため息が自然と口を吐いた。それと一緒に、怒りが穴の空いた風船のように萎んでいくのを感じる。殆ど魔法にでも掛かったみたいだ。これだけ傍若無人に振舞われているというのに、自分の気持ちが不思議で仕方が無い。これも相手がハル姉だから、なのだろうか。
 家族の贔屓目を除いても、ハル姉には「敵を作らない」という才能があると思う。
子供のようにわがままで、甘えん坊で、なのに決して憎めない。
周りの人間が自然と手を差し伸べたくなるような、そんな不思議な魅力。
それは勉強や運動が出来ることよりも、ずっと素晴らしい才能だと思う。
人と人との繋がりが希薄になっていると言われているこの現代社会、出来うることならその魅力は変わらずにあってほしいものだ。

 ――だがな、いつもいつも俺がハル姉のワガママを聞くと思ったら大間違いだぞ。だってどう考えたっておかしいだろ。何考えてんだこのバカ。ブラコン。脳内お花畑。やらんぞ。俺は絶対にやらん。今度という今度は絶対にやらん。ここで譲ってみろ。学校に行っている間はいいとしても、家に帰ったらその分を取り戻そうと今まで以上にベタベタ引っ付いてくるに決まってる。
 嫌だっ! 俺はこの中学最後の一年を自由に過ごすんだ! 友達作るんだ! クラスの女の子と普通に話すんだ! 実姉との怪しげな関係を疑われて遠巻きにされる生活とはおさらばするんだ!
 頑張れ俺の根性。負けるな俺の勇気。深呼吸。気持ちを切り替え、説得という名の戦いへの決意を固める。目の前に立ち塞がる(寝転がってじたばたしてるけど)強大な壁。それを突き崩さぬ限り、平穏な一年間は訪れない。そう、俺の戦いはまだ始まったばかりなのだから――――。




「にゅふふふふふふ」

 布団に滑り込んでいたハル姉が、気味の悪い笑い声を上げる。
ああ、あのだらしなく緩み、よだれさえ垂れている口元。どこまでも垂れ下がった眦。
不幸なことにもこの愚姉に惚れてしまった男どもに見せてやりたい。弟の布団の上でくねくね動くこのバカ姉の姿を見れば、百年の恋も一遍に冷めるというものだ。

「おい、俺の枕に顔を埋めるな。布団に身体を擦り付けるの止めろ」
「あーくん。お姉ちゃんが尊敬して止まない姉キャラの大先輩がこう言っているわ。『姉が弟の匂いを愛でるのは姉として当然のたしなみだよっ!』」
「どこのアットホームでロマンスな家庭出身の姉だコラ」

 俺の馬鹿。何で譲っちまうんだ? こうなることがわかってるのに何で言うこと聞いちまうんだ? 

「ねえ、あーくぅん……。そんなところに座ってないで早く来てよぉ」

 枕から顔を上げたハル姉が、一転して甘える表情を浮かべる。しどけない仕草で掛け布団を持ち上げて、ハル姉が俺を寝床へ誘う。
 潤んだ瞳、赤らんだ頬。墨を溶かしたような綺麗な黒髪が、肩から背中に掛けて滝のように流れている。ボタン一つ開いたパジャマの胸元。豊かな胸がその柔らかさを強調するように形を歪めているのが見えた。
 邪な思考に流されかけているのを感じて、俺は慌てて眼を逸らした。
落ち着け。相手はハル姉なんだぞ。血を分けた実の姉だ。道を歩けば何もないところですっ転び、街に出ればトラブルの大名行列を引き寄せ、家の中では自分の身の回りのことすら碌に出来ないようなポンコツ仕様のあのハル姉なんだぞ。いかんいかん。ハル姉のおかしな思考に当てられて俺までおかしくなってきた。
 とりあえず落ち着こう。そう思って静かに息を吸えば、淡い髪の香りがそっと鼻を打った。……ああ、もう!

「あーくん?」

 人の気も知らないで、バカ姉がきょとんとした顔で俺を見上げてくる。ああ、もう。わかったよ。今更取り消しは出来ないんだろコンチクショウ。
 俺は座イスから立ち上がるとヒモを引っ張って電灯を消した。ハル姉の空けた隙間へ滑り込む。ハル姉には背中を向ける格好だ。今の自分の顔を見せたくはない。
掛け布団の縁をやや強めに引っ掴み、自分の方へ引き寄せる。掛け布団は大きめのサイズだから、これでもハル姉の身体が布団からはみ出すことはないだろう。

「……あーくん、もう寝ちゃうの? ね、こっち向いて? お姉ちゃんと"ぴろーとーく"しようよぉ」
「明日は早いんだからさっさと寝ろ。それと、意味わかってない言葉使おうとすんな」
「む〜」
 
 背後でハル姉の不満そうな唸り声が聞こえたが、知ったことか。一緒に寝るっていう約束は守った。
それに、今こうしていることだって俺の倫理観からすればかなりギリギリの行為なんだ。この上文句まで言われる筋合いは無い。これっぽっちも無い。
 その時突然、ハル姉が俺の身体にすっと腕を回してきた。ぎゅうっとその腕に力が込められ、ハル姉の身体が俺の背中に密着する。
中身はどうあれ、ハル姉の身体付きはもうすっかり大人。不意打ちで背中に押し付けられた柔らかな胸の感触に、ぴくっと身体が強張った。

「……んふっ」

 ハル姉の奇妙な笑い声が聞こえる。反応してしまったのを悟られたらしい。最悪だ。穴があったら入りたい。時計の針の音しかしない沈黙が辛かった。
不覚。全く以って不覚だ。自ら愚姉を調子付かせる材料を提供してしまうとは。これじゃまるで俺がシスコンみたいじゃないか。

「……朝まで二人っきりだね、あーくん」

 俺の耳元に口を寄せ、ハル姉がそっと囁いた。密やかな吐息が耳の穴に掛かる。甘い痺れが背筋を走り、頬がボっと熱を帯びる。

「ひ、引っ付くなよ。寝苦しいだろ」

 俺は慌ててハル姉から身を離そうとする。しかし、ハル姉はしっかりと腕を回して俺を離さない。まるで甘えん坊のコアラだ。

「ダメよ〜。お姉ちゃん、朝までにきっちりしっかりあーくんの成分を補給しなきゃいけないんだから。ほら、すりすりすりすり〜」
「あっ、ふっ……! ちょ、どこ触ってんだこの馬鹿! 変態! いい加減にしないと叩き出すぞ!」

 怒鳴り、振り向き様にハル姉の額に頭突きをかます。なんとも言語化し難い、聞いてると力の抜けるような悲鳴を上げるバカ姉。
 俺はでたらめに踊る自分の心臓が心底憎たらしかった。ハル姉なんかに無様な反応を見せてしまったことに、なんというか、敗北感のようなものを感じる。

「うう〜、あーくん酷いにゃあ……。お姉ちゃん、嬉しくてちょっとはしゃいじゃっただけじゃない」
「当たり前だ。セクハラも大概にしなさい」

 涙声で俺の非道を訴えるハル姉に俺は再び背を向けた。何だかどっと疲れた気分だ。
 結局、今迄と何も変わらないんだなと思う。ちょっと考えればわかることだった。物心付いた時からずっと俺に甘え尽くしてきたこの姉が、高校に進学したくらいで変わる筈は無い。

「はあ……」

 またため息を吐く。下手すりゃ俺の一生はこの愚姉の面倒を見るためだけに費やされるんじゃなかろうか。そんな割と現実味のある未来予想図にげんなりとした。

「どうしたの、あーくん? ため息なんて吐いて」
「別に……。ハル姉はいつも幸せそうでいいなあって思っただけだよ」
「あら」

 不思議そうに。何を当たり前のことを言ってるんだとでも言いたげな声が俺の耳に届いた。

「何を今更。お姉ちゃんはあーくんがいてくれれば何時だって幸せだよ?」

 皮肉で言ったつもりが、返って来たのは思いの外ストレートな言葉。それは何でもない一言の筈で、普段のハル姉の言動からすれば随分とおとなしい好意の表現だったが、どういうわけだがそれはやけに強く俺の心を打った。甘い照れくささがじんわりと喉の奥に込み上げてきて、上手く切り返せない。
曖昧に口を開き掛けてはまた閉じを繰り返す俺に、ハル姉がそっと身を寄せて来た。
それはさっきみたいに変な意味じゃなくて、純粋に温もりを求めるような行為だったと思う。

「あーくんはあったかいね」
「……そりゃ、こんだけ引っ付いてりゃな」
「もう。そういう意味じゃないよぉ」

 ころころと鈴が転がるように笑う。触れ合った身体からハル姉の気持ちが伝わってくる。伝わって来たのは暖流のような幸福感だ。

「こうしていると子供の頃を思い出すよね。お布団をぴったりくっ付けて、あーくんと手を繋いで寝るの。お姉ちゃん、そうすると凄く安心して、守られてて……。あったかい気持ちになれたこと覚えてるよ」
「ん、まあ……。そんなこともあったな」
「あの頃はよかったなあ。あーくん、お姉ちゃんお姉ちゃんっていつも私の後をくっ付いて来てさ」
「俺はどこに行くにもハル姉にべったりくっ付かれて困った覚えしかないんだけど」
「あれ? そうだったっけ? ……まあ、それはそれとして」
 
 ハル姉が不思議そうに言った。メモリが一日ごとにリセットされるのがデフォのバカ姉のことだ。
この程度の改竄は予想の範囲内ではある。呆れはしたものの、いちいち腹を立てていたらきりが無い。

「昔はこんな風にあーくんと一緒に寝るのが当たり前だったのに。いつの間にかそんなことも無くなっちゃって。お姉ちゃんをお部屋に入れることすら渋るようになっちゃってさ。そう思うとお姉ちゃん何だか寂しいよ」

 古い記憶を掘り起こせば、小学校の中学年頃まではハル姉と一つの部屋で寝起きしていた覚えがある。 俺とハル姉の部屋を分けるという話が出た時、ハル姉が泣き叫んでそれを止めようとした記憶もある。あの頃はまだ姉弟間の距離なんてものに悩むことなど無かった。

「それが普通だろ。子供の頃はそれでいいとしても、そういう意識って変わっていくもんだし」

 俺達ぐらいの年代の姉弟が日常的に同衾していたら色々とまずいだろう。あんまり追求すると俺自身にもダメージがいくので深く考えるのは止めておくが。

「むぅ。変わらなくてもいいのに。……でもね、あーくん」

 不意に、ハル姉の声が真剣味を帯びる。

「お姉ちゃんの気持ちはあの頃からずっと変わってないよ。お姉ちゃんはあーくんがいてくれれば何時だって幸せなの」

 ハル姉は弱くも無く強くも無く、ただ自分の気持ちを真摯にぶつけてくる。背中に感じるハル姉が温かい。ハル姉の体温を感じながら、俺はまた考える。
 世間一般に流通している常識という名の物差しで俺とハル姉の関係を測った時、どういう測定結果が出るかなど分かり切っている。 この布団の中の狭さも温かさも、本来は不自然なもの。それが許される時期など、とうの昔に過ぎ去っているのだから。
 生まれた時からの絆。誰よりも近くにいた者同士。ハル姉にとって俺がいることが当然であるように、俺にとってもハル姉がいるのは当たり前のこと。積み重ねて来た思い出は数限り無い。

 春。人間よりタヌキの数の方が多いような詩乃塚村の野山を、ハル姉の手を引いて駆け回った。
 夏。プールで、海ではしゃぎ回った。
 秋。木枯らしの吹く神社の境内で落ち葉を集め、それでベッドを作ろうと奮闘した。
 冬。手袋越しにも手が痺れてくるような寒さの中、姉弟力を合わせて大きな雪だるまを作った。

 思い起こせばきりが無い、砂浜に打ち寄せる波のようにやって来ては去っていく思い出の一つ一つ。それらは全て、家族という絆を紡ぐ糸だ。
そして、家族という絆はただそれだけで充分過ぎる程に強靭だ。だからこそ絆が捩れ、絡まり、鎖となって互いを縛り付けてしまう前に適切な距離を取ることが自然ではないのか、と。
 
「――今までもこれからも、ずっと大好きだよ。あーくん」

 ……だけど。それは今じゃなくてもいいんじゃないか、と思う。

 それはただの逃避なのかもしれない。俺がこんな態度だからハル姉の弟離れがますます遅れているのかもしれない。だけど、今は。こんな小っ恥ずかしいセリフを臆面も無く口にすることが出来る俺の姉を放って置けないと思ってしまったのだ。
 ずるい、と思う。普段から散々俺を引っ張り回して振り回して、それなのにほんの時たまそれを全部許してやりたくなるような気持ちにさせるんだから。
 俺は布団の中でハル姉の手を探った。ほどなくして指先が触れ合う。そのままそっと指先を絡め、手を繋いだ。ハル姉の手は陶器のように滑らかで、木の葉の新芽のように柔らかい。ハル姉が驚いたように息を呑む音が聞こえた。

「……明日は早いんだ。もう寝るぞ、いい加減」

 どうあっても嫌いにはなれない、俺のたった一人の姉はその言葉に「うん」と軽く頷いた。
 結局、今迄と何も変わらないのだ。後四時間か五時間かすれば、この部屋の窓には昨日と同じように朝日が差し込んでくる。そうしたら俺は隣で呑気な寝息を立てているハル姉を起こし、まだ眠いと愚図るハル姉を宥めすかして身支度をさせて。朝食を作っている途中でハル姉にじゃれつかれて怒鳴る羽目になるだろう。そうして一日が始まるのだ。慌ただしくて騒がしい、いつもの日常が。
 それを素晴らしいことだと言い切れるほど俺も人間が出来てはいないけれど、あまり悲観したものでも無いと思うことは出来た。大体、俺がヘコんで目を離している隙にハル姉が何やらかすかわかったもんじゃない。それを考えると今から悲観的になんてなっていられないじゃないか。
 眠い。上下の瞼がくっ付きそうだ。時の流れが朝に向かって急速に加速するのを感じる。
二人分の熱が籠った布団。鼻腔をくすぐる淡い髪の香。繋いだ手の感触。背中に触れる柔らかな身体。
全身の感覚が受け取る情報は全てまどろみを誘う心地良さへと変化していく。
意識が闇に落ちて行く中、ハル姉が俺を呼ぶ声が聞こえた気がした。
  
 
 ――もう少しだけこんな日々が続くのも、悪くはないかな。


 あとがき

某巨大掲示板に投稿したものを加筆修正してアップ。
秋人は何だかんだ言ってお姉ちゃん大好きだと思います。
 余談ですが、これを某巨大掲示板に投稿したそのすぐ後、秋人と小春の押し問答を家の外から綾子が見ていた、というシチュエーションでSSを書かれた方がいてびっくりしました。



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