自室に着いて後ろ手で扉を閉めると、ついため息が出ました。
白ちゃんが来てからというもの、一馬様の御身に以前のような危険が迫ることも無く平穏な日々が続いているというのに、
私の気分は晴れませんでした。
一馬様、と小さく口に出して呟いてみる。ベッドの傍らに飾ってある一馬様の写真は何も答えてはくれません。
私の呟きは暗い部屋の中に空しく消えていくばかりです。
 
 天童一馬様は全国にその名を轟かせる大財閥「天童家」の長男です。
この家にお仕えするようになってすぐ、私は生後間も無い一馬様のお世話を仰せ付かりました。 
とは言え、私に求められたものは世間一般で言うところのメイドとしての能力ではありません。
求められたものは一馬様に降りかかる危険を排除すること。つまりは護衛役でした。
天童家の長男であるという立場はそれはそれで危険を呼び込みやすい要因ではあったでしょう。
しかし、それを遥かに上回る要因として一馬様は「極端に運が悪かった」のです。
庭を歩けば蜂の大群に襲われる。廊下を歩けば床が抜ける。街に出ればスリ・ひったくり・誘拐犯が砂糖に群がる
蟻のようにやって来る……。
説明の付かない理不尽な不運に一馬様はずっと苛まれて来られたのです。
並みの人間であれば心が歪んでしまってもおかしくはなかったでしょう。しかし、一馬様はそうではありませんでした。
どんな不運に見舞われても一馬様は優しい一馬様のままでした。私の力が足りないばかりに一馬様にお怪我をさせてし
まった時もむしろ私の方を気遣うような、優しい一馬様のままでした。
 だから私はあの方を守りたいと思ったのです。儚くも美しい新雪のようなあの方の心を。
あの方の信頼に足る私であれ。それが私を動かす原動力となりました。

『ようこさんはぼくがおおきくなったらぼくのおよめさんになってくれる?』

 そして、私の腰ぐらいまでの背しかなかった一馬様が言って下さった一言。その時に感じた強烈な衝動。
心の底が焦げ付くほど一馬様が欲しい。あの唇を奪い、華奢な身体を抱き寄せ、耳元に愛の言葉を囁いて、瞳の中には私
だけを映していて欲しい。何度も何度も数え切れないくらいそれを実行しそうになって結局そうしなかったのは、あれが
単に忠誠が慕情に変化した瞬間ではなく、私の中に一種の信仰が生まれた瞬間であったからでしょう。
「いつか一馬さまが私をお嫁さんにしてくれる」。
自制の鎖でもあるその信仰が、一馬様の意思を無視した行動に踏み切ることを思い止まらせてくれたのです。


 ……実際にはかなり本気で際どい局面もありましたけど。ええ、プロポーズされた時のことなんてその最たるものですよ。
まさに雷霆億撃を受けたが如し感極まってぎゅーっと抱きしめてしまって「よ、ようこさんくるしいよぉ……」と照れる一
馬様が愛おしくてまた思わず頬っぺたをすりすりしてその感触最高私の思考はピリオドの向こうへ飛び三人目の子供の入学
式まで幻視し一馬様の笑顔でご飯三杯一馬様の可愛さで宇宙がヤバイ


 こほん。


 それはともかくとして。ここ二週間ばかりはそんな一馬様の不運も発動しておらず、いたって平穏な日々が続いております。
その理由はこの天童家に突然現れた少女、シロちゃん。自らを座敷童であると称し、何故か一馬様を「ぱぱ」と呼び慕う白
髪の少女はその不思議な力で一馬様の不運を中和し、人並みの運にすることに成功しています。
私は一馬様が自らの不運を、いえ、それによって周囲に被害が及ぶことを何よりも気に病まれていたことを知っています。
白ちゃんの出現はまさに天の助け。一馬様の悩みが解消されるのは私にとっても喜ばしいことでありました。
だから、私が思い悩むことなど何も無いのです。無い、筈なのに。
 ベッドの傍の壁に掛かっているコルクボード。その一面に貼られている幼少期から現在に至るまでの一馬様の写真。
その中の一枚、幼い一馬様に抱き付く髪の長い女の子が映っている写真が目に入るとたちまち今日の出来事が思い出され、また
ため息が漏れました。

 朝食の時のことです。一馬様と一花様――最近ではシロちゃんも――はどれだけ忙しくても朝昼晩と食事をともにし、私と
樹子はそれに付き従うことになっています。
今日もいつものように朝食を食べていたのですが、何やら雰囲気がおかしかったのです。
ちらちらとお互いの顔を窺い、目が合うと赤くなる一馬様と一花様。何かを言いかけ、「あの」という声が重なり合ってお互い
が先にどうぞと譲り合う。食卓から塩入れをとろうとして指先が触れ合えばびくりと震え、容器を取り落としてしまう。
理由は存じませんが、昨日も似たようなことがありました。ただし、昨日は何と申しましょうか、もっと重苦しくて居辛い雰
囲気だったのですが。今日の雰囲気はそれとは違う、妙になまめいた、そう、まるでお互いを想い合う男女の――

「あらら、まるで付き合いたてのカップルみたいですねえ」
「お、おかしなことを言わないで下さい!」

 普段なら聞き流せる筈の樹子の発言に思わず大きな声を出してしまい、シロちゃんが驚いて目玉焼きの乗った皿を取り落とし
てしまいました。

「……馬鹿馬鹿しい。そんなことある筈が無いのに」

 三度目のため息。一花様は敬愛すべき雇い主であると同時に、ただ一点のみに置いては不倶戴天の敵でありました。
一花様のことを嫌っているわけではありません。あの若さで天童グループ何十万何百万という人間のトップに立ち、辣腕を振る
う一花様。あの細い肩に何十万何百万という人間の人生と生活を背負い、凛と立つ姿を私は尊敬しております。
なのに、一花様のことを敵のように感じてしまうのは一馬様のことがあるからです。
 一花様は一馬様のことが好きなのです。兄妹という限度を越えて。一馬様を目の前にするとなかなか素直になれない一花様。
一馬様はそんな一花様の態度を自分が不甲斐無い所為だとよく仰っていますが、気付いておいでだったでしょうか。
一花様が時折寂しさと同時に強い渇望の色を浮かべてあなたを見ていたことを。
 私と一花様の間で小競り合いが絶えないのはその所為なのでしょう。一花様が本気であることを知っているからこそ、一馬様
のことでは些細なことでも妥協が出来ない、譲れないと思わされてしまうのでしょう。
 しかし、私が一人の女として一花様に危機感を募らせる反面、私は何処かで楽観していました。
なんといっても一馬様と一花様は兄妹なのです。幾ら想いを募らせようと最終的に結ばれるわけがない。万が一、一花様が直接
的な行動に出たとしても一馬様はモラルが高く常識的なお方。ちゃんと拒んで下さるに違いない、と。
 常識的に考えればその通りなのです。私の煩悶はある意味では一馬様への侮辱。しかし、では、昨日と今朝のお二人は?
嫌な考えが消えてくれない。勝手に膨らんでいく自らの猜疑心が呪わしい。一馬様を疑いたくなんて無いのに。
 
 駄目だ。このままじゃ眠れそうに無い。もう一度見回りでもして頭を冷やしてこよう。
私はドアを開け、自室を後にしました。

 


 あとがき

体験版で葉子さんがあまりにも可愛過ぎたので突発的に書きました。
にちゃんねるの某スレに投稿したものを多少修正してアップ。



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