夕映がレポートを書き上げた時には、窓の外はすっかり暗くなっていた。いつの間にか随分時間が経ってしまったらしい。
 図書室の中にはほとんど人の姿が見えなくなっていた。
 レポートとは彼女の所属する哲学研究会に提出するレポートだ。
夕映は図書館探検部の他に哲学研究会と児童文学研究会にも所属している。
最近は図書館探検部の方に比重が偏りがちなのだが、研究発表会ぐらいは出ておかないとまずいということで放課後からずっとレポートの作成に掛かりきりだったのだ。
 本当はこんなに時間が掛かるはずはなかった。ヘラクレイトスの万物流転説についてのレポートは以前から暇を見て少しずつ作成しており、
後は推敲の過程を残すだけだったのだ。それなのにこんなに遅くなったのは、図書室で懐かしいものを見つけたからだった。
尊敬する祖父の書き記した本。哲学書のコーナーの一角に並べられていたそれを、資料そっちのけで読みふけっているうちに時間が経ってしまい、こんなに遅くなってしまったという訳だった。
 「愛を知らぬ者が、本当の強さを手に入れることは永遠にないだろう」。本の中でその言葉を見つけた時は、夕映はつい最近その言葉を使っ
た時のことを思い出して人知れず苦笑した。よくも小太郎さんにあんな偉そうなことが言えたものだ。
説教をした同じ日に自分が何をしたのか。個人的にカシオペアを借りられるとしたら、過去の自分にこそ説教をくれてやりたい。
そんなことを思いながら、夕映は机の上に広げたレポート用紙を畳むと図書室を出た。







 好きな男の子の話。恋の占いにおまじない。
 小等部の頃の夕映はそんな話で盛り上がることができるクラスメイト達が理解できなかったし、内心で彼女達を軽蔑してもいた。
だが、今は違う。少なくとも恋愛を馬鹿にすることはできない。その理由は二つある。
一つは自分の親友が恋をしてどんどん可愛くなっていくのを見てきたこと。そしてもう一つは自分自身恋をしていること。
その相手が親友と同じ人物だということがつい最近まで夕映を酷く苦しめていたのだが。

 のどかの恋を応援していたはずが、いつの間にか自分自身ネギのことが好きになってしまっていた。
 そのことに気付いた時、夕映は愕然とし、同時に怖くなった。このことを知ったのどかが自分のことをどう思うかが恐ろしくて仕方が無かった。
尊敬する祖父を亡くし、世の中の何もかにもがくだらなく見えて自暴自棄になっていた時、夕映を救ってくれたのはのどか達だった。
「本好きの人に悪い人はいないと思うから」その一言がきっかけで始まったのどか達との交流は、頑なだった夕映の心を時間を掛けてゆっくりと溶かしていってくれた。そんな大切な友達、なかでものどかの想い人を好きになってしまうなど。
 裏切りだ、と夕映は思った。他の誰が何と言おうとも、夕映にとってそれは裏切り以外の何物でもなかった。
 だから夕映は逃げ出したのだ。のどかに嫌われるのが何よりも怖かったから。
 そんな夕映を、のどかは平手打ちした。平手打ちした後抱きしめて、夕映ならネギ先生のことが好きでも全然嫌じゃないと言った。
そんなのは嘘だ、と夕映が言うとあっさりそれを認めながらも、ネギ先生にまだ好きな人がいないなら一緒に頑張ろうと言ってくれた。
友達でいてほしいと、そう言ってくれた。喧嘩したりどっちかが悲しい思いをするより、辛くて苦しい嘘をついてでも一緒に頑張る。
静かだが強い決意。それを見せられて、夕映は胸が震えた。
 のどかはいつの間にこんなに強くなったのだろう? 
 私のことをこんなに想ってくれる親友を、私はどうして信じられなかったのだろう? 
情けなくて嬉しくて、涙が溢れた。その直後ハルナの飛び蹴りを喰らって吹っ飛ばされたのも、散々皆を心配させた罰だと思えば軽過ぎる位だ。
 
 そして。綾瀬夕映はのどかと共にネギ争奪戦に身を投じることに決めたのだ。
 どうなるかはわからないが、自分の気持ちに素直になることを誓った。
 友情と恋愛。それは天秤にかけるようなものではないことを、のどかが教えてくれたから。
 
 夕映はそっと制服のポケットに手を当てた。そこに入っているのは仮契約カード。夕映とネギが仮契約、すなわちキスした証。
 それを思って夕映は一人照れた。
 
 入っていたものはもう一つある。愛用のペンライトだ。
 期末試験で最下位を脱出するため、図書館島の深部に魔法の本を探しに行った時使ったものだった。
 ふと、夕映は昔聞いたおまじないのことを思い出した。ペンライトを使った恋のおまじない。
金曜の夜九時過ぎに、暗い所でペンライトを点ける。そして、じっとライトを見つめて好きな彼の顔を思い浮かべて、自分の胸の中にある思いを、心の中で彼に語りかけるのだ。「どうか、私の気持ちに気付いてください」「こんなにあなたのことを想っています」というふうに。
それから一度ライトを消して、その後三回点滅させる。これを二十八日間毎日続ければ両思いになれるというものだ。
一日でも休んではいけない。一日でも休めばそれまでの努力は無に帰し、また初めからやり直しになる。

 馬鹿馬鹿しいおまじないだ。そんなことをする根気と暇があるならさっさと「好きだ」と言ってしまえばいいのに。
 当時の夕映はこう思っていたし、それは今でも変わらない。
違うのはそんなものにも縋りたくなる女の子達の気持ちが、非常に不本意ではあるがわかるようになってしまったこと。

 桜通りのベンチに腰を下ろし、ペンライトを指でくるくる回す。それが、ぴたっと止まった。じっとそれを見つめる夕映。
 先端に照射を高めるための専用レンズが組み込んである、LEDペンライト。
簡単な作りながらも使い勝手がよく、夕映はこのペンライトが気に入っていた。銀色の本体は、街灯の明かりを反射して光る。
こうして見るとまるで飾り気のないこのペンライトもどこかロマンティックな小道具に見えてくるから不思議だ。
例えば、彼の持つ魔法の杖のような。一振りすれば願いを叶えてくれる、魔法の道具。
 夕映の指先がペンライトのプッシュボタンに触れる。そして―――ハっと我に返って夕映は恥ずかしさのあまりぶんぶんと首を振った。

 ―――わ、私は何をやっているのです? 大体今日は月曜です。いや! 問題は月曜とか金曜とかそんなことじゃなく。私としたことがこ、
こんな乙女チックな下らないおまじないに惑わされ……あろうことかネ、ネギ先生のことを……。アホここに極まれりです! そういえば「こ
のおまじないのことは誰にも喋ってはいけないし、他の人に見られてもいけない」というルールもありました。知られたら恥ずかしくて死にた
くなるからに違いありません。素直になるとは決めましたがこれはちょっと違うでしょう。一時の気の迷いとはいえ何て愚かしい。ええそうで
す気の迷いに決まってますともですから私もこのことはさっさと忘れて―――

「夕映さん? そんなところで何をしているんですか?」
「きゃあっ!?」

 果ての無い思考の渦に飲み込まれていた夕映は、突然掛けられた声に驚いて危うくベンチから落ちそうになった。
 次に、その声の主が今まさに夕映の想っていた人物であることに気付いてもっと驚いた。

「す、すみません。驚かしちゃったみたいですね……」
「あ、いえ……」

 そこに立っていたのは、夕映の担任教師。子供用のスーツに身を包んだ、夕映の想い人。
 ごほんと咳払いを一つ。何とか気持ちを落ち着かせると、わざとらしくネギに尋ねる。

「ネ、ネギ先生は今からお帰りですか?」
「はい。マスターの修行の帰りです。夕映さんは、ここで何を?」
「あ、そ、その……」

 手の中にある銀色の筒を意味もなく弄びながら、夕映は返答に詰まった。まさか本当のことを言う訳にもいかない。
 とはいえ、こんな時間にベンチで一人座っている理由など思いつかないのだ。
 
「ああ……確かに綺麗ですよね」
「え?」
「今日はこんなに星が綺麗なんですから。ゆっくり見たくなる気持ちもわかりますよ」

 違うんですか? と小首を傾げて尋ねてくるネギ。その仕草がとても愛らしく、夕映はまた顔が赤くなるのがわかった。
 誤解してくれたのはありがたがったが、いちいちドキドキさせないで下さいと八つ当たり気味なことを思った。
 今夜は、満月だ。ネギにつられるように見上げた星空は、確かに美しかった。
星の綺麗な夜に二人きり。ネギの目が夜空に向けられていることに感謝した。きっと今自分の顔は真っ赤になっている。
それでもネギの顔が見たくて、夕映はちらりとネギに視線をやった。
 
 棒色の瞳。
 子供らしい丸みを帯びた頬。
 そして、小さな唇。

 あの唇に自分は触れたのだ。そう思うとまた胸の動悸が激しくなった。
 ムードも何もない、無理矢理な形でのキスだったが、それでも想い人とのキスには間違いない。
ネギ先生はあのことをどう思っているのだろうか。木乃香さんや刹那さんとも仮契約しているのだし、やっぱり従者が一人増えたぐらいにしか思っていないのだろうか。少しは意識していて欲しいな、と思った。

「……僕の顔に、何か?」

 いつの間にかじっとネギの顔を見つめていたらしい。視線に気付いたネギが、何にもわかっていなさそうに夕映に尋ねた。
 夕映は少しだけむかっとした。わかっているのだ。ネギが女の子の気持ちに鈍いことは。
彼がここで夕映の心情を察する程男女の機微に通じる少年であったなら、夕映ものどかも苦労していない。
わかってはいたが、自分だけドキドキしてネギが平然としていることが面白くなかった。夕映の眉が微かにひそめられる。

「私、帰ります」
「え?」

 だからだろう。夕映は愛しい子供先生を少し困らせたくなった。普段の彼女らしからぬ、小さないたずらだった。
 わざと平板な声をつくり、すっくと立ち上がって歩き出す。背後からネギのうろたえた気配が伝わってきた。
唐突に帰ると言われれば彼だって戸惑うだろう。何か夕映の気分を害することをしてしまったのかと、彼は今全力で考えているはずだ。
夕映の予想通り、ネギが慌てて待って下さいとその背中に声を掛けてきた。

「あの……僕何か夕映さんの気に障るようなことを?」
「いえ別に」

 立ち止まって答えを返す。ネギの困った顔を想像して、肩が震えるのを抑えるのが大変だった。

 ―――これくらいは困らせてあげないと。とことん鈍くていつも私とのどかを困らせる先生には、これくらいの薬が必要でしょう?

 ライバルは多い。何しろ彼ときたら自覚なく女の子を惹きつけて、その皆に優しいくせに彼女達からの好意にはまるで気が付かない性質の悪い女泣かせなのだ。そんな少年に惚れたのは自分とのどかが悪い。
なら、頑張るしかないじゃないか。彼に好きな女の子がいないなら、その女の子になるため頑張るしかないじゃないか。
 最終的に彼の隣に立っているのは自分か、のどかか、それとも他の誰かか。それはわからないけれど、想いを伝えようともせずぐずぐず悩むのはもう止めた。綾瀬夕映はのどかと共にネギ争奪戦に身を投じることに決めたのだ。 

 夕映がネギの方を振り向いた。そろそろ許してあげようかな、という気持ちになっていたし、笑いを堪えるのももう限界だったから。

「一緒に帰りましょう? ネギ先生」

 最高の笑顔でネギを見つめる。見つめたネギの顔が赤くなるのを見て、夕映は満足だった。


 



 月明かりの下、桜通りを並んで歩く小さな影が二つ。
 


あとがき

 偶には積極的な夕映がいたっていいと思うんです。



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